五内《ごない》渾《すべ》て燃え、四肢《しし》直《ただち》に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶《はんもん》とは新に来《きた》りて彼を襲へるなり。
 主《あるじ》は貫一が全濡《づぶぬれ》の姿よりも、更に可訝《いぶかし》きその気色《けしき》に目留めて、問はでも椿事《ちんじ》の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁《のが》れ来にけれど、なかなか心安からで、両人《ふたり》を置去《おきざり》に為《せ》し跡は如何《いかに》、又我が為《せ》んやうは如何《いかに》など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒《さわが》しさには似で、小暗《をぐら》き空に満てる雨声《うせい》を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚《はなは》だ幽なり。主《あるじ》はこの時|窓際《まどぎは》の手合観《てあはせみ》に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾《ひ》ぬ袂《たもと》を翳《かざ》しつつ、愈《いよい》よ限無く惑ひゐたり。遽《にはか》に人の騒立つるに愕《おどろ》きて顔を挙《あぐ》れば、座中|尽《ことごと》く頸《くび》を延べて己《おの》が方《かた》を眺め、声々に臭しと喚《よば》はるに、見れば、吾が羽織の端《はし》は火中に落ちて黒煙《くろけふり》を起つるなり。直《ぢき》に揉消《もみけ》せば人は静《しづま》るとともに、彼もまた前《さき》の如し。
 少頃《しばし》有りて、門《かど》に入来《いりき》し女の訪《おとな》ふ声して、
「宅の旦那《だんな》様はもしや這裡《こちら》へいらつしやりは致しませんで為《し》たらうか」
 主は忽《たちま》ち髯《ひげ》の頤《おとがひ》を回《めぐら》して、
「ああ、奥にお在《いで》で御座いますよ」
 豊かと差覗《さしのぞ》きたる貫一は、
「おお、傘を持つて来たのか」
「はい。此方《こちら》にお在《いで》なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」
「さうか。客は帰つたか」
「はい、疾《とう》にお帰《かへり》になりまして御座います」
「四谷のも帰つたか」
「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰《おつしや》いまして」
「居る?」
「はい」
「それぢや見付からんと言つて措《お》け」
「ではお帰りに成りませんので?」
「も少し経《た》つたら帰る」
「直《ぢき》にもうお中食《ひる》で御座いますが」
「可《い》いから早く行けよ」
「未《ま》だ旦那様は朝御飯も」
「可いと言ふに!」
 老婢は傘と足駄《あしだ》とを置きて悄々《すごすご》還りぬ。
 程無く貫一も焦げたる袂《たもと》を垂れて出行《いでゆ》けり。
 彼はこの情緒の劇《はげし》く紛乱せるに際して、可煩《わづらはし》き満枝に※[#「※」は「夕/寅」、366−13]《まつは》らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去《かへりさ》らん後までは決《け》して還らじと心を定めて、既に所在《ありか》を知られたる碁会所を立出《たちい》でしが、いよいよ指して行くべき方《かた》は有らず。はや正午と云ふに未《いま》だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何《いか》に為《せ》んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然《ぼうぼうぜん》として彷徨《さまよ》へり。
 初夏の日は長かりけれど、纔《わづか》に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆《ほとん》ど惜き夢の間に昏《く》れて、折から雨も霽《は》れたれば、好者《すきもの》どもも終《つひ》に碁子《きし》を歛《をさ》めて、惣立《そうだち》に帰るをあたかも送らんとする主の忙々《いそがはし》く燈《ひ》ともす比《ころ》なり、貫一の姿は始て我家の門《かど》に顕《あらは》れぬ。
 彼は内に入《い》るより、
「飯を、飯を!」と婢《をんな》を叱《しつ》して、颯《さ》と奥の間の紙門《ふすま》を排《ひら》けば、何ぞ図らん燈火《ともしび》の前に人の影在り。
 彼は立てるままに目を※[#「※」は「目+登」、367−6]《みは》りつ。されど、その影は後向《うしろむき》に居て動かんとも為《せ》ず。満枝は未《いま》だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚《なほ》も殊更《ことさら》に見向かぬを、此方《こなた》もわざと言《ことば》を掛けずして子亭《はなれ》に入り、豊を呼びて衣を更《か》へ、膳《ぜん》をも其処《そこ》に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来《いりく》べき満枝の食事を了《をは》るまでも来ざるなりき。却《かへ》りて仕合好《しあはせよ》しと、貫一は打労《うちつか》れたる身を暢《のびや》かに、障子の月影に肱枕《ひぢまくら》して、姑《しばら》く喫烟《きつえん》に耽《ふけ》りたり。
 敢《あへ》て恋しとにはあらねど、苦しげに羸《やつ》れたる宮が面影《おもかげ》の幻は、頭《かしら》を回《めぐ》れる一蚊《ひとつか》の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出《おもひい》でらるれば、なほ往きかねて那辺《そこら
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