から」
「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」
「はい……広島の方に居りまして御座います」
「はあ、さやうで。唯今は何方《どちら》に」
「池端《いけのはた》に居ります」
「へえ、池端、お宜《よろし》い処で御座いますね。然し、夙《かね》て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰《おつしや》るもので御座いますから、全くさうとばかり私《わたくし》信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意《つもり》であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体|作《なさ》るので御座いますよ」
 疑《うたがひ》の雲は始て宮が胸に懸《かか》りぬ。父が甞《かつ》て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指《さ》せしはこれならん。さては客来《きやくらい》と言ひしも詐《いつはり》にて、或《あるひ》は内縁の妻と定れる身の、吾を咎《とが》めて邪魔立せんとか、但《ただし》は彼人《かのひと》のこれ見よとてここに引出《ひきいだ》せしかと、今更に差《たが》はざりし父が言《ことば》を思ひて、宮は仇《あだ》の為に病めるを笞《むちう》たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処《いづく》にか潜めゐる彼人《かのひと》の吾が還るを待ちて忽《たちま》ち出で来て、この者と手を把《と》り、面《おもて》を並べて、可哀《あはれ》なる吾をば笑ひ罵《ののし》りもやせんと想へば、得堪《えた》へず口惜《くちをし》くて、如何《いか》にせば可《よ》きと心苦《こころくるし》く遅《ためら》ひゐたり。
「お久しぶりで折角お出《いで》のところを、生憎《あいにく》と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些《ちよつ》と遠方でございますから、お帰来《かへり》の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又|御寛《ごゆつく》りとお出《い》で遊ばしまして」
「大相|長座《ちようざ》を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」
「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些《ちよつ》とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」
「はい、誠に残念でございます」
「さやうで御座いませうとも」
「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日《こんにち》は一日遊んで参らうと楽《たのしみ》に致してをりましたのを、実に残念で御座います」
「大きに」
「さやうなら私はお暇《いとま》を致しませう」
「お帰来《かへり》で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」
「いいえ、幾多《いくら》降りましたところが俥《くるま》で御座いますから」
 互に憎し、口惜《くちを》しと鎬《しのぎ》を削る心の刃《やいば》を控へて、彼等は又|相見《あひみ》ざるべしと念じつつ別れにけり。

     第 七 章

 家の内を隈無《くまな》く尋ぬれども在らず、さては今にも何処《いづこ》よりか帰来《かへりこ》んと待てど暮せど、姿を晦《くらま》せし貫一は、我家ながらも身を容《い》るる所無き苦紛《くるしまぎ》れに、裏庭の木戸より傘《かさ》も※[#「※」は「敬/手」、364−5]《さ》さで忍び出でけるなり。
 されど唯一目散に脱《のが》れんとのみにて、卒《にはか》に志す方《かた》もあらぬに、生憎《あやにく》降頻《ふりしき》る雨をば、辛《から》くも人の軒などに凌《しの》ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節《をりふし》通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処《そこ》に躍入《をどりい》りけり。
 客は三組ばかり、各《おのおの》静に窓前の竹の清韻《せいいん》を聴きて相対《あひたい》せる座敷の一間《ひとま》奥に、主《あるじ》は乾魚《ひもの》の如き親仁《おやぢ》の黄なる髯《ひげ》を長く生《はや》したるが、兀然《こつぜん》として独《ひと》り盤を磨《みが》きゐる傍に通りて、彼は先《ま》づ濡《ぬ》れたる衣《きぬ》を炙《あぶ》らんと火鉢《ひばち》に寄りたり。
 異《あやし》み問はるるには能《よ》くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波《なごり》は今も轟《とどろ》く胸の内に痛《したた》か思回《おもひめぐら》して、又|空《むなし》く神《しん》は傷《いた》み、魂《こん》は驚くといへども、我や怒《いか》る可き、事や哀《あはれ》むべき、或《あるひ》は悲む可きか、恨む可きか、抑《そもそ》も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。
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