ひれふ》しぬ。
「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声|劇《はげし》く縁続《えんつづき》の子亭《はなれ》より聞《きこ》ゆれば、直《ぢき》に走り行く足音の響きしが、やがて返し来《きた》れる老婢は客間に顕《あらは》れぬ。宮は未だ頭《かしら》を挙げずゐたり。可憐《しをらし》き束髪の頸元深《えりもとふか》く、黄蘖染《おうばくぞめ》の半衿《はんえり》に紋御召《もんおめし》の二枚袷《にまいあはせ》を重ねたる衣紋《えもん》の綾《あや》先《ま》づ謂はんやう無く、肩状《かたつき》優《やさし》う内俯《うつふ》したる脊《そびら》に金茶地《きんちやぢ》の東綴《あづまつづれ》の帯高く、勝色裏《かついろうら》の敷乱《しきみだ》れつつ、白羽二重《しろはぶたへ》のハンカチイフに涙を掩《おほ》へる指に赤く、白く指環《リング》の玉を耀《かがやか》したる、殆《ほとん》ど物語の画をも看《み》るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐《おそろし》きやうにも覚ゆるぞかし。
「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今|生憎《あいにく》と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日《こんにち》はこれで御立帰《おたちかへり》を願ひますで御座います」
 面《おもて》を抑へたるままに宮は涙を啜《すす》りて、
「ああ、さやうで御座いますか」
「折角お出《いで》のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」
「唯今|些《ちよつ》と支度を致しますから、もう少々置いて戴《いただ》きますよ」
「さあさあ、貴方《あなた》御遠慮無く御寛《ごゆるり》と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日《こんにち》はいつそお寒過ぎますで御座います」
 彼の起ちし迹《あと》に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦《よみがへ》りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久《ひさし》かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又|出来《いできた》れり。宮はその時|遽《にはか》に身※[#「※」は「(尸+巾)+又」、353−11]《みづくろい》して、
「それではお暇《いとま》を致します。些《ちよつ》と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方《どちら》にお寝《よ》つてお在《いで》ですか……」
「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」
「いいえ、御挨拶だけ些《ちよつ》と」
「さやうで御座いますか。では此方《こちら》へ」
 主《あるじ》の本意《ほい》ならじとは念《おも》ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭《はなれ》に案内《あない》せり。昨夜《ゆふべ》の収めざる蓐《とこ》の内に貫一は着のまま打仆《うちたふ》れて、夜着《よぎ》も掻巻《かいまき》も裾《すそ》の方《かた》に蹴放《けはな》し、枕《まくら》に辛《から》うじてその端《はし》に幾度《いくたび》か置易《おきかへ》られし頭《かしら》を載《の》せたり。
 思ひも懸けず宮の入来《いりく》るを見て、起回《おきかへ》らんとせし彼の膝下《ひざもと》に、早くも女の転《まろ》び来て、立たんと為れば袂《たもと》を執り、猶《なほ》も犇《ひし》と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。
「ええ、何の真似《まね》だ!」
 突返さんとする男の手を、宮は両手に抱《いだ》き緊《し》めて、
「貫一さん!」
「何を為る、この恥不知《はぢしらず》!」
「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」
「ええ、聒《やかまし》い! ここを放さんか」
「貫一さん」
「放さんかと言ふに、ええ、もう!」
 その身を楯《たて》に宮は放さじと争ひて益《ますま》す放さず、両箇《ふたり》が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又|相見《あひみ》じと誓へるその人の顔の、おのれ眺《なが》めたりし色は疾《と》く失せて、誰《たれ》ゆゑ今の別《べつ》に※[#「※」は「豐+盍」、354−15]《えん》なるも、なほ形のみは変らずして、実《げ》にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何《いか》にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間《ひま》に現《うつつ》ともなく彼を矚《まも》れり。宮は殆《ほとん》ど情|極《きはま》りて、纔《わづか》に狂せざるを得たるのみ。
 彼は人の頭《かしら》より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把《と》る手をば釈《と》かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許《いかばかり》大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持《も》たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無《はかりな》きものなりしが、嗟乎《ああ》、今|何処《いづこ》に在りや。その嘗《かつ》て誠を恵みし手は冷《ひやや》かに残れり。空《むなし》くその手を抱《いだ》きて泣かんが為に来《きた》れる宮が悔は
前へ 次へ
全177ページ中129ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング