おもて》を回《めぐら》さず、細雨《さいう》静《しづか》に庭樹《ていじゆ》を撲《う》ちて滴《したた》る翠《みどり》は内を照せり。
「荒尾さんと有仰《おつしや》るのは貴方で」
 彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面《おもて》を示さざらんやうに頭《かしら》を下げて礼を作《な》せり。しかも彼は輙《たやす》くその下げたる頭《かしら》と※[#「※」は「てへん+主」、349−11]《つか》へたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚《おどろか》されし貫一は、今又何事なりやと弥《いよい》よ呆《あき》れて、彼の様子を打矚《うちまも》れり。乍《たちま》ち有りて貫一の眼《まなこ》は慌忙《あわただし》く覓《もと》むらん色を作《な》して、婦人の俯《うつむ》けるを※[#「※」は「にんべん+乞」、349−13]《き》と窺《うかが》ひたりしが、
「何ぞ御用でございますか」
「…………」
 彼は益《ますま》す急に左瞻右視《とみかうみ》して窺ひつ。
「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」
「…………」
 露置く百合《ゆり》の花などの仄《ほのか》に風を迎へたる如く、その可疑《うたがはし》き婦人の面《おもて》は術無《じゆつな》げに挙らんとして、又|慙《は》ぢ懼《おそ》れたるやうに遅疑《たゆた》ふ時、
「宮!?」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。
 宮は嬉し悲しの心昧《こころくら》みて、身も世もあらず泣伏したり。
「何用有つて来た!」
 怒《いか》るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱《はぢし》むべきか、悲むべきか、号《さけ》ぶべきか、詈《ののし》るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱《あひみだ》れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫《うちふる》ひゐたり。
「貫一《かんいつ》さん! どうぞ堪忍《かんにん》して下さいまし」
 宮は漸《やうや》う顔を振挙げしも、凄《すさまじ》く色を変へたる貫一の面《おもて》に向ふべくもあらで萎《しを》れ俯《ふ》しぬ。
「早く帰れ!」
「…………」
「宮!」
 幾年《いくとせ》聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐《なつか》しと見る目を覚えず其方《そなた》に転《うつ》せば、鋭く※[#「※」は「目+是」、350−15]《みむか》ふる貫一の眼《まなこ》の湿《うるほ》へるは、既に如何《いか》なる涙の催せしならん。
「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意《つもり》か。先達而《せんだつて》から頻《しきり》に手紙を寄来《よこ》すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直《すぐ》に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私《わたし》は今病中で、かうしてゐるのも太儀《たいぎ》でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」
 彼は老婢を召して、
「お客様のお立《たち》だ、お供にさう申して」
 取附く島もあらず思悩《おもひなや》める宮を委《お》きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。
「貫一さん、私《わたし》は今日は死んでも可《い》い意《つもり》でお目に掛りに来たのですから、貴方《あなた》の存分にどんな目にでも遭《あは》せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」
「何の為に!」
「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました!! 悉《くはし》い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全《まる》で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言《いは》れない事ばかり、設《たと》ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些《ちつ》とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑《わび》は為る意《つもり》でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目《めんぼく》が無いやら、悲いやらで、何|一語《ひとこと》も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈《はず》でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」
「それがどう為たのだ」
「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」
 涙ながらに手を※[#「※」は「てへん+主」、352−3]《つか》へて、吾が足下《あしもと》に額叩《ぬかづ》く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、
「六年|前《ぜん》の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」
「…………」
「さあ、どうか」
「私は忘れは為ません」
「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」
「堪忍して下さい」
 唯《と》見る間に出行《いでゆ》く貫一、咄嗟《あなや》、紙門《ふすま》は鉄壁よりも堅く閉《た》てられたり。宮はその心に張充《はりつ》めし望を失ひてはたと領伏《
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