いか。ことの破れて了《しま》つた今日《こんにち》になつて悔悟も赦してくれも要《い》つたものか、無益な事だ! 少《すこし》も汚《けが》れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行《おこな》つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。
 であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外《ほか》に妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺《おれ》のこの胸の中を可憐《あはれ》と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負《そむ》いて……何の面目《めんぼく》有つて今更悔悟……晩《おそ》い!」
 彼はその文を再三柱に鞭《むちう》ちて、終に繩《なは》の如く引捩《ひきねぢ》りぬ。
 打続きて宮が音信《たより》の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披《ひらか》れざるに送り、送らるるに披《ひらか》かざりしも、はや算《かぞ》ふれば十通に上《のぼ》れり。さすがに今は貫一が見る度《たび》の憤《いかり》も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁《しげ》きに、自《おのづか》ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能《あた》はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽《にはか》に彼を可懐《なつかし》むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容《い》れんと為るにあらずして、始《はじめ》に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己《おのれ》に存し、彼の新なる悔は切に※[#「※」は「夕/寅」、347−15]《まつは》るも、徒《いたづら》に凍えて水を得たるに同《おなじ》かるこの両《ふたつ》の者の、相対《あひたい》して相拯《あひすく》ふ能はざる苦艱《くげん》を添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤《いかり》ならぬ憤も発して、憂身独《うきみひとり》の儚《はかな》き世をば如何《いか》にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々《ぼうぼう》として、彼は屡《しばし》ばその貪《むさぼ》るをさへ忘るる事ありけり。劇《はげし》く物思ひて寝《い》ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨《ねや》に魘《おそは》るる夢の苦く頻《しきり》に呻《うめ》きしを、老婢《ろうひ》に喚《よば》れて、覚めたりと知りつつ現《うつつ》ならず又睡りけるを、再び彼に揺起《ゆりおこさ》れて驚けば、
「お客様でございます」
「お客? 誰だ」
「荒尾さんと有仰《おつしや》いました」
「何、荒尾? ああ、さうか」
 主《あるじ》の急ぎ起きんとすれば、
「お通し申しますで御座いますか」
「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫《しばら》く失礼致しますとさう申して」
 貫一はかの一別の後|三度《みたび》まで彼の隠家《かくれが》を訪ひしかど、毎《つね》に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何《いかが》を満枝に糺《ただ》せしに、変る事無く其処《そこ》に住めりと言ふに、さては真《まこと》に交《まじはり》を絶たんとすならんを、姑《しばら》く強《しひ》て追はじと、一月|余《あまり》も打絶えたりしに、彼方《あなた》より好《よ》くこそ来つれ、吾がこの苦《くるしみ》を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋《とも》の来《きた》れるも、実《げ》にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出《いだ》して一日《いちじつ》彼を還さじなど、心忙《こころせはし》きまでに歓《よろこ》ばれぬ。
 絶交せるやうに疏音《そいん》なりし荒尾の、何の意ありて卒《にはか》に訪来《とひきた》れるならん。貫一はその何の意なりやを念《おも》はず、又その突然の来叩《おとづれ》をも怪《あやし》まずして、畢竟《ひつきよう》彼の疏音なりしはその飄然《ひようぜん》主義の拘《かか》らざる故《ゆゑ》、交《まじはり》を絶つとは言ひしかど、誼《よしみ》の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己《おのれ》を友として来《きた》れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。
 手水場《てうづば》を出来《いでき》し貫一は腫※[#「※」は「目+匡」、349−5]《はれまぶた》の赤きを連※[#「※」は「目+荅」、349−5]《しばたた》きつつ、羽織の紐《ひも》を結びも敢《あ》へず、つと客間の紙門《ふすま》を排《ひら》けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美《うつくし》う装《よそほ》へる婦人の独《ひと》り羞含《はぢがまし》う控へたる。打惑《うちまど》ひて入《い》りかねたる彼の目前《まのあたり》に、可疑《うたがはし》き女客も未《いま》だ背《そむ》けたる面《
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