世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾《すべ》てこれを斥《しりぞ》けぬ。されどもその一旦の憤《いきどほり》は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々《おうおう》は、吾心を食尽《はみつく》し、終《つひ》に吾身を斃《たふ》すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊《あくりよう》の如く執念《しゆうね》く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日|偶《たまた》ま人の相悦《あひよろこ》ぶを見て、又|躬《みづから》も怡《よろこ》びつつ、楽《たのし》の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。
彼はいよいよ思廻《おもひめぐら》せり。
宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾|命《めい》のままならんとぞ言来《いひこ》したる。吾はその悔の為にはかの憤《いきどほり》を忘るべきか、任他《さはれ》吾恋の旧《むかし》に復《かへ》りて再び完《まつた》かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因《よ》りて始て償はるべきか、或《あるひ》はその富を獲んとする貪欲《どんよく》はこの恨を移すに足るか。
彼は苦《くるし》き息《いき》を嘘《ふ》きぬ。
吾恋を壊《やぶ》りし唯継! 彼等の恋を壊らんと為《せ》しは誰《た》そ、その吾の今千葉に赴《おもむ》くも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医《い》すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割《さか》れし愛は落花の復《かへ》る無くして畢《をは》らんのみ! いで、吾はかくて空く埋《うづも》るべきか、風に因《よ》りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。
貫一は船橋を過《すぐ》る燈《ともしび》暗き汽車の中《うち》に在り。
第 六 章
千葉より帰りて五日の後 M., Shigis――の書信《ふみ》は又|来《きた》りぬ。貫一は例に因《よ》りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽《たちま》ち浮ぶその人の面影《おもかげ》は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆《ほとん》ど当時に同《おなじ》き憤《いかり》を発して、先の二度なるよりはこの三度《みたび》に及べるを、径廷《をこがまし》くも廻らぬ筆の力などを以《も》て、旧《むかし》に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来《きた》りて大海《だいかい》を填《うづ》めんとするやと、却《かへ》りて頑《かたくな》に自ら守らんとも為なり。
さりとも知らぬ宮は蟻《あり》の思を運ぶに似たる片便《かたたより》も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何《いか》に見るらん、書綴《かきつづ》れる吾誠《わがまこと》の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋《ひとすぢ》の緒《いとぐち》ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採《ふでと》りて、その限無き思《おもひ》を写してぞ止まざりし。
唯継は近頃彼の専《もつぱ》ら手習すと聞きて、その善き行《おこなひ》を感ずる余《あまり》に、良き墨、良き筆、良き硯《すずり》、良き手本まで自ら求め来ては、この難有《ありがた》き心掛の妻に遣《おく》りぬ。宮はそれ等を汚《けがら》はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴《つづ》られし文は、又|六日《むゆか》を経て貫一の許《もと》に送られぬ。彼は四度《よたび》の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経《ふ》ると思ふ程も無く、五度《いつたび》の文は来にけり。よし送り送りて千束《ちつか》にも余れ、手に取るからの烟《けむ》ぞと侮《あなど》れる貫一も、曾《かつ》て宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知《いひし》らず異《あやし》みつつ、今日のみは直《すぐ》にも焚《や》かざりしその文を、一度《ひとたび》は披《ひら》き見んと為たり。
「然し……」
彼は輙《たやす》く手を下さざりき。
「赦《ゆる》してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若《も》し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣《や》る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日《こんにち》の貫一と宮との間に如何《いか》なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操《みさを》の疵《きず》が愈《い》えて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於《おい》ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生|汚《けが》れた宮ではな
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