だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父《をぢ》さん、尊母《をば》さんの心にもなつて見たら、今の私には添《そは》されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情《じよう》は、何処《どこ》の親でも差違《かはり》は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦《あきら》めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽《たのしみ》に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」
「それぢや、雅さんは内の阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些《ちつと》も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」
「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」
「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」
「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全《まる》で私の心を酌んではおくれでないのだ」
「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適《ゆ》くと極《きま》つて、その為に御嫁入道具まで丁《ちやん》と調《こしら》へて置きながら、今更外へ適《ゆか》れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余《あんま》り酷《ひど》いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他《よそ》へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」
 女は身を顫《ふるは》して泣沈めるなるべし。
「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為《せ》うと云ふのです」
「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極《き》めてゐますから」
 亜《つ》いで男の声は為《せ》ざりしが、間有《しばしあ》りて孰《いづれ》より語り出でしとも分かず、又|一時《ひとしきり》密々《ひそひそ》と話声の洩《も》れけれど、調子の低かりければ此方《こなた》には聞知られざりき。彼等は久くこの細語《ささめごと》を息《や》めずして、その間一たびも高く言《ことば》を出《いだ》さざりしは、互にその意《こころ》に逆《さか》ふところ無かりしなるべし。
「きつと? きつとですか」
 始て又明かに聞えしは女の声なり。
「さうすれば私もその気で居るから」
 かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々《じよじよ》として飽かず語れるなり。貫一は心陰《こころひそか》に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何《いか》に幸《さいはひ》ならんかを想ひて、あたかも妙《たへ》なる楽の音《ね》の計らず洩聞《もれきこ》えけんやうに、憂《う》かる己をも忘れんとしつ。
 今かの娘の宮ならば如何《いか》ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日《こんにち》の吾たるを択《えら》ぶ可《べ》きか、将《はた》かの雅之たるを希《こひねが》はんや。貫一は空《むなし》うかく想へり。
 宮も嘗《かつ》て己に対して、かの娘に遜《ゆづ》るまじき誠を抱《いだ》かざるにしもあらざりき。彼にして若《も》し金剛石《ダイアモンド》の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全《まつた》うしたらんや。唯継《ただつぐ》の金力を以て彼女を脅《おびやか》したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀《かがや》ける金剛石《ダイアモンド》と汚《けが》れたる罪名とは、孰《いづれ》か愛を割《さ》くの力多かる。
 彼は更にかく思へり。
 唯その人を命として、己《おのれ》も有らず、家も有らず、何処《いづこ》の野末《のずゑ》にも相従《あひしたが》はんと誓へるかの娘の、竟《つひ》に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝《をし》みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。
 彼は又かくも思へるなり。
 それ愛の最も篤《あつ》からんには、利にも惑はず、他に又|易《か》ふる者もあらざる可きを、仮初《かりそめ》もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明《あか》せるなり。凡《およ》そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或《ある》は己の信ずらんやうに、宮の愛の特《こと》に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故《ゆゑ》に
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