付け、隻《ひとり》の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚《いひなづけ》は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如《いつそ》私は牢《ろう》の中で死んで了つた……方が可かつた!」
「あれ、雅さん、そんな事を……」
 両箇《ふたり》は一度に哭《な》き出《いだ》せり。
「阿母さんがあん畜生《ちきしよう》の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒《はらいせ》ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴《すう》さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽《たのしみ》にして在《ゐな》すつた……のだし」
 女《をんな》はつと出でし泣音《なくね》の後を怺《こら》へ怺へて啜上《すすりあ》げぬ。
「私《わたし》も破談に為《す》る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」
「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」
「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退《ひ》いて、これまでの縁と諦《あきら》めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」
 女は唯|愈《いよい》よ咽《むせ》びゐたり。音も立てず臥《ふ》したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処《そこここ》より男を隙見《すきみ》せんと為たりけれど、竟《つひ》に意《こころ》の如くならで止みぬ。然《しか》れども彼は正《まさし》くその声音《こわね》に聞覚《ききおぼえ》あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之《あくらまさゆき》ならずと為《せ》んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独《ひと》り頷《うなづ》きつつ貫一は又|潜《ひそま》りて聴耳立てたり。
「嘘《うそ》にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭《あひ》なので、それが為に縁を切る意《つもり》なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断《しほだち》なんぞ為はしませんわ」
 彼は自らその苦節を憶《おも》ひて泣きぬ。
「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞《だま》されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共《ともども》に悔《くや》し……悔し……悔《くやし》いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時《いつ》私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」
 この心を知らずや、と情極《じようきはま》りて彼の悶《もだ》え慨《なげ》くが手に取る如き隣には、貫一が内俯《うつぷし》に頭《かしら》を擦付《すりつ》けて、巻莨《まきたばこ》の消えしを※[#「※」は「敬/手」、340−12]《ささ》げたるままに横《よこた》はれるなり。
「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月《みつき》の余《よ》も疾《わづら》つて……そんな事も雅さんは知つてお在《いで》ぢやないのでせう。それは、阿父《おとつ》さんや阿母《おつか》さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適《ゆ》かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛《かはい》がつて下すつた雅さんの尊母《おつか》さんに私は済まない。
 親が不承知なのを私が自分の了簡通《りようけんどほり》に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適《ゆ》きたいのですから、お可厭《いや》でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有《あん》なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」
 貫一は身を回《めぐら》して臂枕《ひざまくら》に打仰《うちあふ》ぎぬ。彼は己《おのれ》が与へし男の不幸よりも、添《そは》れぬ女の悲《かなしみ》よりも、先《ま》づその娘が意気の壮《さかん》なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚《もゆ》る如き誠もあるよ、と頭《かしら》は熱《ねつ》し胸は轟《とどろ》くなり。
 さて男の声は聞ゆ。
「それは、鈴《すう》さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭《あ》はなかつたら、今頃は家内三人で睦《むつまし》く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂《いは》れないほど情無い。かうして今では人に顔向《かほむけ》も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人
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