》みて、眉《まゆ》を顰《ひそ》めたるのみ。
「もう飲めんのか。ぢや此方《こつち》にお寄来《よこ》し」
「失礼ですけれど」
「この上へもう一盃注《いつぱいつ》いで貰はう」
「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」
「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」
「さうでございますか」
「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習《おほざらひ》が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川《いとがわ》の処へ集つて下温習《したざらひ》を為るのさ。俺は、それお特得《はこ》の、「親々《おやおや》に誘《いざな》はれ、難波《なにわ》の浦《うら》を船出《ふなで》して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待《かぜまち》にテチンチンツン……」
厭《いとは》しげに宮の余所見《よそみ》せるに、乗地《のりぢ》の唯継は愈《いよい》よ声を作りて、
「たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐《あらし》に吹分《ふきわ》けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父《ちち》イイイイ母《はは》のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定《つまさだめ》……」
「貴方もう好加減《いいかげん》になさいましよ」
「もう少し聴いてくれ、〔立つる操《みさを》を破ら……」
「又|寛《ゆつく》り伺ひますから、早くいらつしやいまし」
「然し、巧くなつたらう、ねえ、些《ちよつ》と聞けるだらう」
「私には解りませんです」
「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰《もら》はうか」
「解らなくても宜うございます」
「何、宜いものか、浄瑠璃《じようるり》の解らんやうな頭脳《あたま》ぢや為方《しかた》が無い。お前は一体冷淡な頭脳《あたま》を有《も》つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」
「そんな事はございません」
「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」
「愛子はどうでございます」
「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」
「それで能く解りました」
「何が解つたのか」
「解りました」
「些《ちつと》も解らんよ」
「まあ可《よ》うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」
「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」
「私は何時《いつ》でも待つてをりますぢや御座いませんか」
「これは冷淡でない!」
漸《やうや》く唯継の立起《たちあが》れば、宮は外套《がいとう》を着せ掛けて、不取敢《とりあへず》彼に握手を求めぬ。こは決《け》して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故《ゆゑ》は、この女夫《めをと》の出入《しゆつにゆう》に握手するは、夫の始より命じて習せし躾《しつけ》なるをや。
(三) の 二
夫を玄関に送り出《い》でし宮は、やがて氷の窖《あなぐら》などに入《い》るらん想《おもひ》しつつ、是非無き歩《あゆみ》を運びて居間に還《かへ》りぬ。彼はその夫と偕《とも》に在るを謂《い》はんやう無き累《わづらひ》と為《す》なれど、又その独《ひとり》を守りてこの家に処《おか》るるをも堪《た》へ難く悒《いぶせ》きものに思へるなり。必《かならず》しも力《つと》むるとにはあらねど、夫の前には自《おのづか》ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣《ほしいま》まなる身一箇《みひとつ》となれば、遽《にはか》に慵《ものう》く打労《うちつか》れて、心は整へん術《すべ》も知らず紊《みだ》れに乱るるが常なり。
火鉢《ひばち》に倚《よ》りて宮は、我を喪《うしな》へる体《てい》なりしが、如何《いか》に思入《おもひい》り、思回《おもひまは》し思窮《おもひつ》むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終《つひ》に明けぬ闇《やみ》に彷徨《さまよ》へる可悲《かな》しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出《い》でたり。
麗《うるはし》く冱《さ》えたる空は遠く三四《みつよつ》の凧《いか》の影を転じて、見遍《みわた》す庭の名残《なごり》無く冬枯《ふゆか》れたれば、浅露《あからさま》なる日の光の眩《まばゆ》きのみにて、啼狂《なきくる》ひし梢《こずゑ》の鵯《ひよ》の去りし後は、隔てる隣より戞々《かつかつ》と羽子《はね》突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値《あたひ》あらぬを、彼はされども少時《しばし》居て、又空を眺《なが》め、又|冬枯《ふゆがれ》を見遣《みや》り、同《おなじ》き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑《おさ》へんとはしたりけれども抑へ難さの竟《つひ》に苦く、再び居間に入《い》ると見れば、其処《そこ》にも留らで書斎の次なる寝間《ねま》に入《い》るより、
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