ひとたび》も色を作《な》さざるを風引《かぜひ》かぬやうに召しませ猪牙《ちよき》とやらの難有《ありがた》き賢女の志とも戴《いただ》き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑《なほざり》ならず念《おも》ひにけり。さるは独《ひと》り夫のみならず、本家の両親を始《はじめ》親属|知辺《しるべ》に至るまで一般に彼の病身を憫《あはれ》みて、おとなしき嫁よと賞《ほ》め揚《そや》さぬはあらず。実《げ》に彼は某《なにがし》の妻のやうに出行《である》かず、くれがしの夫人《マダム》のやうに気儘《きまま》ならず、又は誰々《たれだれ》の如く華美《はで》を好まず、強請事《ねだりごと》せず、しかもそれ等の人々より才も容《かたち》も立勝《たちまさ》りて在りながら、常に内に居て夫に事《つか》ふるより外《ほか》を為《せ》ざるが、最怜《いとを》しと見ゆるなるべし。宮が裹《つつ》める秘密は知る者もあらず、躬《みづから》も絶えて異《あやし》まるべき穂を露《あらは》さざりければ、その夫に事《つか》へて捗々《はかばか》しからぬ偽《いつはり》も偽とは為られず、却《かへ》りて人に憫《あはれ》まるるなんど、その身には量無《はかりな》き幸《さいはひ》を享《う》くる心の内に、独《ひと》り遣方無《やるかたな》く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。
十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日《きのふ》を夢み、今日を嘆《かこ》ちつつ、過《すぐ》せば過さるる月日を累《かさ》ねて、ここに二十《はたち》あまり五《いつつ》の春を迎へぬ。この春の齎《もたら》せしものは痛悔と失望と憂悶《ゆうもん》と、別に空《むなし》くその身を老《おい》しむる齢《よはひ》なるのみ。彼は釈《ゆるさ》れざる囚《とらはれ》にも同《おなじ》かる思を悩みて、元日の明《あく》るよりいとど懊悩《おうのう》の遣る方無かりけるも、年の始といふに臥《ふ》すべき病《やまひ》ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧《よそほひ》も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶《なほ》甚《はなはだし》き浅ましさをその人の陰《かげ》に陽《ひなた》に恨み悲むめり。
宮は今外出せんとする夫の寒凌《さむさしの》ぎに葡萄酒《ぶどうしゆ》飲む間《ま》を暫《しばら》く長火鉢《ながひばち》の前に冊《かしづ》くなり。木振賤《きぶりいやし》からぬ二鉢《ふたはち》の梅の影を帯びて南縁の障子に上《のぼ》り尽せる日脚《ひざし》は、袋棚《ふくろだな》に据ゑたる福寿草《ふくじゆそう》の五六輪|咲揃《さきそろ》へる葩《はなびら》に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩《ひるまばゆ》き新調の三枚襲《さんまいがさね》を着飾りてその最も珍《ちん》と為る里昂《リヨン》製の白の透織《すかしおり》の絹領巻《きぬえりまき》を右手《めて》に引※[#「※」は「てへん+區」、306−10]《ひきつくろ》ひ、左に宮の酌を受けながら、
「あ、拙《まづ》い手付《てつき》……ああ零《こぼ》れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所《よそ》で飲む気にもなりますと謂《い》つて可い位のものだ」
「ですから多度上《たんとあが》つていらつしやいまし」
「宜《よろし》いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」
「何時頃お帰来《かへり》になります」
「遅いよ」
「でも大約《おほよそ》時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」
「遅いよ」
「それぢや十時には皆《みんな》寝みますから」
「遅いよ」
又言ふも煩《わづらはし》くて宮は口を閉ぢぬ。
「遅いよ」
「…………」
「驚くほど遅いよ」
「…………」
「おい、些《ちよつ》と」
「…………」
「おや。お前|慍《おこ》つたのか」
「…………」
「慍らんでも可いぢやないか、おい」
彼は続け様に宮の袖《そで》を曳けば、
「何を作《なさ》るのよ」
「返事を為んからさ」
「お遅《おそ》いのは解りましたよ」
「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌《きげん》を直すべし」
「お遅いなら、お遅いで宜《よろし》うございますから……」
「遅くはないと言ふに、お前は近来|直《ぢき》に慍るよ、どう云ふのかね」
「一つは病気の所為《せゐ》かも知れませんけれど」
「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」
「…………」
「お前一つ飲まんかい」
「私《わたくし》沢山」
「ぢや俺が半分|助《す》けて遣るから」
「いいえ、沢山なのですから」
「まあさう言はんで、少し、注《つ》ぐ真似《まね》」
「欲くもないものを、貴方は」
「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅《あんばい》に、愛子流かね」
妓《ぎ》の名を聞ける宮の如何《いか》に言ふらん、と唯継は陰《ひそか》に楽み待つなる流眄《ながしめ》を彼の面《おもて》に送れるなり。
宮は知らず貌《がほ》に一口の酒を喞《ふく
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