くるです。
力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。
間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗《すこぶ》る有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日《あす》訪ねてくれい? さうは可《い》かん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世《うきよ》が可厭《いや》か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日《こんにち》の有様では生効《いきがひ》の無い方じやけれど、このままで空《むなし》く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論|勝《まし》ですさ。何故《なにゆゑ》命が惜いのか、考へて見ると頗《すこぶ》る解《わから》なくなる」
語りつつ彼は食を了《をは》りぬ。
「嗚呼《ああ》、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」
宮は差含《さしぐ》む涙を啜《すす》れり。尽きせぬ悲《かなしみ》を何時までか見んとやうに荒尾は俄《にはか》に身支度して、
「こりや然し却《かへ》つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇《いとま》」
「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」
はや彼は起てるなり。宮はその前に塞《ふさが》りて立ちながら泣きぬ。
「私はどうしたら可いのでせう」
「覚悟一つです」
始て誨《をし》ふるが如く言放ちて荒尾の排《かきの》け行かんとするを、彼は猶も縋《すが》りて、
「覚悟とは?」
「読んで字の如し」
驚破《すはや》、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣《や》らぬ宮が姿は、寂《さびし》くも壁に向ひて動かざりけり。
第 三 章
門々《かどかど》の松は除かれて七八日《ななやうか》も過ぎぬれど、なほ正月|機嫌《きげん》の失せぬ富山唯継は、今日も明日《あす》もと行処《ゆきどころ》を求めては、夜を※[#「※」は「日/咎」、304−8]《ひ》に継ぎて打廻《うちめぐ》るなりけり。宮は毫《いささ》かもこれも咎《とが》めず、出づるも入《い》るも唯彼の為《な》すに任せて、あだかも旅館の主《あるじ》の為《す》らんやうに、形《かた》ばかりの送迎を怠らざると謂《い》ふのみ。
この夫に対する仕向《しむけ》は両三年来の平生《へいぜい》を貫きて、彼の性質とも病身の故《ゆゑ》とも許さるるまでに目慣《めなら》されて又|彼方《あなた》よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行《おこなひ》も曩日《さきのひ》とは漸《やうや》く変りて、出遊《であそび》に耽《ふけ》らんとする傾《かたむき》も出《い》で来《き》しを、浅瀬《あさせ》の浪《なみ》と見《み》し間《ま》も無く近き頃より俄《にはか》に深陥《ふかはまり》して浮《うか》るると知れたるを、宮は猶《なほ》しも措《お》きて咎めず。他《ひと》は如何《いか》にとも為《せ》よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易《こころやす》さを偸《ぬす》みて、異《あやし》き女夫《めをと》の契を繋《つな》ぐにぞありける。
かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂《うき》に瘁《やつ》れたる宮は決して美《うつくし》き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧《か》くべきにあらざりき。抑《そもそ》もここに嫁《とつ》ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻《ただ》に愛無きに止《とどま》らずして、陰《ひそか》に厭《いと》ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂《うさ》を霽《はら》すに忙《いそがはし》きにあらずや。されども彼の忘れず塒《ねぐら》に帰り来《きた》るは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了《みをは》れば、何ばかりの楽《たのしみ》のあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉《ストオブ》の傍《かたはら》に処《をら》しむるなり。彼の凍えて出《い》でざること無し。出《い》づれば幸ひにその金力に頼《よ》りて勢を得、媚《こび》を買ひて、一時の慾を肆《ほしいま》まにし、其処《そこ》には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空《むなし》き色香《いろか》に溺《おぼ》れて、内にはかかる美きものを手活《ていけ》の花と眺《なが》め、外には到るところに当世の※[#「※」は「鬲+(栩−木)」、305−6]《はぶし》を鳴して推廻《おしまは》すが、此上無《こよな》う紳士の願足れりと心得たるなり。
いで、その妻は見るも厭《いとはし》き夫の傍《そば》に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁《しげ》き外出《そとで》を見赦《みゆる》して、十度《とたび》に一度《
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