しを》れたる宮と熊の敷皮を斜《ななめ》に差向ひたり。こはこれ、彼の識《し》れると謂《い》ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒《いとぐち》を解きしなるべし。
「間《はざま》が影を隠す時、僕に遺《のこ》した手紙が有る、それで悉《くはし》い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫《ふる》へて腹が立つた。直《すぐ》に貴方《あなた》に会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒《い》ゆるほど打※[#「※」は「足+(殕−歹)」、295−1]《うちのめ》して、一生結婚の成らんやう立派な不具《かたは》にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言《ことば》を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言《ことば》を容《い》れやう道理が無い。又間を嫌《きら》うた以上は、貴方は富山への売物じや。他《ひと》の売物に疵《きず》を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯《たて》も耐《たま》らん胸を※[#「※」は「沙/手」、295−4]《さす》つて了《しま》うたんです」
宮が顔を推当《おしあ》てたる片袖《かたそで》の端《はし》より、連《しきり》に眉《まゆ》の顰《ひそ》むが見えぬ。
「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間《はざま》さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨《うら》むばかりでは慊《あきた》らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生《しちしよう》まで怨む、きつと怨む!」
終《つひ》に宮が得堪《えた》へぬ泣音《なくね》は洩《も》れぬ。
「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子《いつぷじよし》に棄てられたが為に志を挫《くじ》いて、命を抛《なげう》つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何《いか》に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故《ゆゑ》に、彼が今日《こんにち》の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操《みさを》を破つたのみでない。併《あは》せて夫を刺殺《さしころ》したも……」
宮は慄然《りつぜん》として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥《まなじり》は貫一が怨《うらみ》も憑《うつ》りたりやと、その見る前に身の措所無《おきどころな》く打竦《うちすく》みたり。
「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟《かいご》されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日《こんにち》に及んでの悔悟は業《すで》に晩《おそ》い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆《くつがへ》つた。盆は破れて了《しま》うたんじや。かう成つた上は最早《もはや》神の力も逮《およ》ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作《な》せる罪の報《むくい》で、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」
宮は俯《うつむ》きてよよと泣くのみ。
吁《ああ》、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争《いか》で争で吾が罪を容《ゆる》すべき。吁《ああ》、吾が罪は終《つひ》に容《ゆる》されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。
宮は胸潰《むねつぶ》れて、涙の中に人心地《ひとここち》をも失はんとすなり。
おのれ、利を見て愛無かりし匹婦《ひつぷ》、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情《じよう》は動くなりき。宮は際無《はてしな》く顔を得挙《えあ》げずゐたり。
「然し、好う悔悟を作《なす》つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因《よ》つて自ら容されたんじや」
由無《よしな》き慰藉《なぐさめ》は聞かじとやうに宮は俯《ふ》しながら頭《かしら》を掉《ふ》りて更に泣入りぬ。
「自《みづから》にても容されたのは、誰《たれ》にも容されんのには勝《まさ》つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂《い》ふもの。僕は未《ま》だ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日《こんにち》の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間《はざま》の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰《いづれ》が多く憐《あはれ》むべきであるかと謂へば、間の無念は抑《そもそも》どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。
かうして今日《こんにち》図らずお目に掛つた。僕は婦人
前へ
次へ
全177ページ中109ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング