の眼色《まなざし》は漸《やうや》く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚《まも》りつつ便無《びんな》げに佇《たたず》みけるに、いでや長居は無益《むやく》とばかり、彼は蹌踉《よろよろ》と踏出《ふみいだ》せり。
婦人はとにもかくにも遣過《やりすご》せしが、又何とか思直《おもひなほ》しけん、遽《にはか》に追行きて呼止めたり。頭《かしら》を捻向《ねぢむ》けたる酔客は※[#「※」は「目+毛」、291−16]《くも》れる眼《まなこ》を屹《き》と見据ゑて、自《われ》か他《ひと》かと訝《いぶか》しさに言《ことば》も出《いだ》さず。
「もしお人違《ひとちがひ》でございましたら御免あそばしまして。貴方《あなた》は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」
「は?」彼は覚えず身を回《かへ》して、丁《ちよう》と立てたる鉄鞭に仗《よ》り、こは是《これ》白日の夢か、空華《くうげ》の形か、正体見んと為れど、酔眼の空《むなし》く張るのみにて、益《ますま》す霽《は》れざるは疑《うたがひ》なり。
「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」
「はあ? 荒尾です、私《わたくし》荒尾です」
「あの間《はざま》貫一を御承知の?」
「おお、間貫一、旧友でした」
「私《わたくし》は鴫沢《しぎさわ》の宮でございます」
「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰《おつしや》る……?」
「はい、間の居りました宅の鴫沢」
「おお、宮さん!」
奇遇に驚かされたる彼の酔《ゑひ》は頓《とみ》に半《なかば》は消えて、せめて昔の俤《おもかげ》を認むるや、とその人を打眺《うちなが》むるより外はあらず。
「お久しぶりで御座いました」
宮は懽《よろこ》び勇みて犇《ひし》と寄りぬ。
今は美《うつくし》き俥《くるま》の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合《なのりあ》へるかれとこれとの思は如何《いかに》。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜《いとし》かりし人にあらずや。その日の彼等は又|同胞《はらから》にも得べからざる親《したしみ》を以《も》て、膝《ひざ》をも交《まじ》へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算《かぞ》へざりしなり。よしさりとも、一《ひと》たび同胞《はらから》と睦合《むつみあ》へりし身の、弊衣《へいい》を飄《ひるがへ》して道に酔《ゑ》ひ、流車を駆りて富に驕《おご》れる高下《こうげ》の差別《しやべつ》の自《おのづか》ら種《しゆ》有りて作《な》せるに似たる如此《かくのごと》きを、彼等は更に更に夢《ゆめみ》ざりしなり。その算《かぞ》へざりし奇遇と夢《ゆめみ》ざりし差別《しやべつ》とは、咄々《とつとつ》、相携へて二人の身上《しんじよう》に逼《せま》れるなり。女気《をんなぎ》の脆《もろ》き涙ははや宮の目に湿《うるほ》ひぬ。
「まあ大相お変り遊ばしたこと!」
「貴方《あなた》も変りましたな!」
さしも見えざりし面《おもて》の傷の可恐《おそろし》きまでに益《ますま》す血を出《いだ》すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭《ぬぐ》はしめつつ、心も心ならず様子を窺《うかが》ひて、
「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」
彼は何やらん吩咐《いひつ》けて車夫を遣りぬ。
「直《ぢき》この近くに懇意の医者が居りますから、其処《そこ》までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」
「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」
「あれ、お殆《あぶな》うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出《いで》あそばしまし」
「いんや、宜《よろし》い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」
宮は胸先《むなさき》を刃《やいば》の透《とほ》るやうに覚《おぼ》ゆるなりき。
「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」
「然し、どうしてゐますか、無事ですか」
「はい……」
「決して、無事ぢやない筈《はず》です」
生きたる心地もせずして宮の慙《は》ぢ慄《をのの》ける傍《かたはら》に、車夫は見苦《みぐるし》からぬ一台の辻車《つじぐるま》を伴ひ来《きた》れり。漸《やうや》く面《おもて》を挙《あぐ》れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立《ひとたち》を、可忌《いまはし》くも巡査の怪みて近《ちかづ》くなり。
第 二 章
鬚深《ひげふか》き横面《よこづら》に貼薬《はりくすり》したる荒尾譲介《あらおじようすけ》は既に蒼《あを》く酔醒《ゑひさ》めて、煌々《こうこう》たる空気ラムプの前に襞※[#「※」は「ころもへん+責」、294−12]《ひだ》もあらぬ袴《はかま》の膝《ひざ》を丈六《じようろく》に組みて、接待莨《せつたいたばこ》の葉巻を燻《くゆ》しつつ意気|粛《おごそか》に、打萎《うち
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