は、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を被《かうむ》りき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、その聴《きか》れざりし恨より、親として事《つか》へざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。
 生暖《なまあたたか》き風は急に来《きた》りてその外套《がいとう》の翼を吹捲《ふきまく》りぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無《はしな》く彼は憶起《おもひおこ》して、さばかりは有《あり》のすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙《いつし》を与ふる者ぞ、我は今|聘《へい》せられし測量地より帰来《かへりきた》れるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へて杳《はるか》に迢《はるか》に隔つる世の人となりぬ。
 炎々たる猛火の裏《うち》に、その父と母とは苦《くるし》み悶《もだ》えて援《たすけ》を呼びけんは幾許《いかばかり》ぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽《あいえつ》は渾身《こんしん》をして涙に化し了《をは》らしめんとするなり。
「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。貴方《あなた》一箇《ひとり》のお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日《こんにち》まで御両親をお持ちになつてゐられたのは、私《わたくし》などの身から見ると何よりお可羨《うらやまし》いので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ詐《いつはり》の無いものは決して御座いませんな、私は十五の歳《とし》から孤児《みなしご》になりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊《みくび》られます。余り見縊られたのが自棄《やけ》の本《もと》で、遂《つひ》に私も真人間に成損《なりそこな》つて了つたやうな訳で。固《もと》より己《おのれ》の至らん罪ではありますけれど、抑《そもそ》も親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合《ふしあはせ》で、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それはもう幾歳《いくつ》になつたから親に別れて可いと謂《い》ふ理窟《りくつ》はありませんけれど、聊《いささ》か慰むるに足ると、まあ、思召《おぼしめ》さなければなりません」
 貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き例《ためし》はあらず、彼の物言はずとよりは、この人の悪《にく》み遠《とほざ》けたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生視して、得べくば撲《う》つて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が言《ことば》の端々《はしはし》に人がましき響あるを聞きて、いと異《あや》しと思へり。
「それでは、貴方真人間に成損《なりそこな》つたとお言ひのですな」
「さうでございます」
「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」
「勿論《もちろん》でございます」
 直道は俯《うつむ》きて言はざりき。
「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐《ふてくさ》れた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」
 彼はなほ俯《うつむ》き、なほ言はずして、頷《うなづ》くのみ。
 夜は太《いた》く更《ふ》けにければ、さらでだに音を絶《た》てる寂静《しづかさ》はここに澄徹《すみわた》りて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙《ふみにじ》る靴の下に、瓦の脆《もろ》く割《わ》るるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物は毀《こぼた》れたる中に一箇《ひとり》は立ち、一箇《ひとり》は偃《いこ》ひて、言《ことば》あらぬ姿の佗《わび》しげなるに照すとも無き月影の隠々と映添《さしそ》ひたる、既に彷彿《ほうふつ》として悲《かなしみ》の図を描成《ゑがきな》せり。
 かくて暫《しばら》く有りし後、直道は卒然|言《ことば》を出《いだ》せり。
「貴方、真人間に成つてくれませんか」
 その声音《こわね》の可愁《うれはし》き底には情《なさけ》も籠《こも》れりと聞えぬ。貫一は粗《ほぼ》彼の意を暁《さと》れり。
「はい、難有《ありがた》うございます」
「どうですか」
「折角のお言《ことば》ではございますが、私《わたくし》はどうぞこのままにお措《お》き下さいまし」
「それは何為《なぜ》ですか」
「今更真人間に復《かへ》る必要も無いのです」
「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶《あいさつ》をして下さいな」
「いや、お気に障《さは》りましたらお赦《ゆる》し下さいまし。貴方とは従来《これまで》浸々《しみじみ》お話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂《うはさ》を伺つて、能《よ》く貴方を存じてをります。極潔《ごくきよ》いお方なので、精神的に傷《きずつ》いたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申
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