《ふつふつ》と薫《くん》じて、はや一銚子《ひとちようし》更《か》へたるに、未《いま》だ狂女の音容《おとづれ》はあらず。お峯は半《なかば》危みつつも幾分の安堵《あんど》の思を弄《もてあそ》び喜ぶ風情《ふぜい》にて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎《いつ》もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了《しま》ひませうから。ああ、真《ほん》に天尊様の御利益《ごりやく》があつたのだ」
 夫が差せる猪口《ちよく》を受けて、
「お相《あひ》をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴《いただ》くとお美《いし》いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方《あなた》。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然《いよいよ》今晩は来ないと極《きま》りましたね。ぢや、戸締《とじまり》を為《さ》して了ひませうか、真《ほん》に今晩のやうな気の霽々《せいせい》した、心《しん》の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿《いのち》を短《ちぢ》めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒《ごしゆ》もお美《いし》いものですね。なあにあの婆さんが唯怖《ただこは》いのぢやありませんよ。それは気味《きび》は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄《すご》くて耐《たま》らないのです。あれが来ると、悚然《ぞつ》と、惣毛竪《そうけだ》つて体《からだ》が竦《すく》むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着《とつつか》れでもするやうな気がして、あの、それ、能《よ》く夢で可恐《おそろし》い奴なんぞに追懸《おつか》けられると、迯《に》げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
 銚子を更《か》へて婢《をんな》の持来《もちきた》れば、
「金《きん》や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅《あんばい》でございます」
「お前には後でお菓子を御褒美《ごほうび》に出すからね。貴方《あなた》、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭《いや》なことを有仰《おつしや》いまし」
 吹来《ふききた》り、吹去る風は大浪《おほなみ》の寄せては返す如く絶間無く轟《とどろ》きて、その劇《はげし》きは柱などをひちひちと鳴揺《なりゆる》がし、物打倒す犇《ひしめ》き、引断《ひきちぎ》る音、圧折《へしお》る響は此処彼処《ここかしこ》に聞えて、唯居るさへに胆《きも》は冷《ひや》されぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶《てつびん》の湯気は雲を噴《は》くこと頻《しきり》なれど、更に背面を圧する寒《さむさ》は鉄板《てつぱん》などや負はさるるかと、飲めども多く酔《ゑ》ひ成さざるに、直行は後を牽《ひ》きて已《や》まず、お峯も心祝《こころいはひ》の数を過して、その地顔の赭《あか》きをば仮漆布《ニスし》きたるやうに照り耀《かがやか》して陶然たり。
 狂女は果して来《こ》ざりけり。歓《よろこ》び酔《ゑ》へるお峯も唯|酔《ゑ》へる夫も、褒美|貰《もら》ひし婢も、十時近き比《ころほひ》には皆|寐鎮《ねしづま》りぬ。
 風は猶《なほ》も邪《よこしま》に吹募りて、高き梢《こずゑ》は箒《ははき》の掃くが如く撓《たわ》められ、疎《まばら》に散れる星の数は終《つひ》に吹下《ふきおろ》されぬべく、層々|凝《こ》れる寒《さむさ》は殆《ほとん》ど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益《ますま》す冥《くら》く、益す凄《すさまじ》からんとす。忽《たちま》ちこの黒暗々を劈《つんざ》きて、鰐淵が裏木戸の辺《あたり》に一道《いちどう》の光は揚りぬ。低く発《おこ》りて物に遮《さへぎ》られたれば、何の火とも弁《わきま》へ難くて、その迸発《ほとばしり》の朱《あか》く烟《けむ》れる中に、母家《もや》と土蔵との影は朧《おぼろ》に顕《あらは》るるともなく奪はれて、瞬《またた》くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又|映《うつろ》ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時《しばし》明《あかり》を保ちたりしが、風の僅《わづか》の絶間を偸《ぬす》みて、閃々《ひらひら》と納屋《なや》の板戸を伝ひ、始めて騰《のぼ》れる焔《ほのほ》は炳然《へいぜん》として四辺《あたり》を照せり。塀際《へいぎは》に添ひて人の形《かたち》動くと見えしが、なほ暗くて了然《さだか》ならず。
 数息《すそく》の間にして火の手は縦横に蔓《はびこ》りつつ、納屋の内に乱
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