入れば、噴出《ふきい》づる黒烟《くろけふり》の渦は或《あるひ》は頽《くづ》れ、或は畳みて、その外を引※[#「※」は「韋+(榲−木)」、273−6]《ひきつつ》むとともに、見え遍《わた》りし家も土蔵も堆《うづたか》き黯※[#「※」は「(黯−音)+甚」、273−6]《あんたん》の底に没して、闇は焔に破られ、焔は烟《けふり》に揉立《もみた》てられ、烟《けむり》は更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の夥《おびただし》ければ、猶ほ所狭《ところせ》く漲《みなぎ》りて、文目《あやめ》も分かず攪乱《かきみだ》れたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然《さだか》ならざりし形はこの時|明《あきらか》に輝かされぬ。宵に来《く》べかりし狂女の佇《たたず》めるなり。躍《をど》り狂ふ烟の下に自若として、面《おもて》も爛《ただ》れんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。実《げ》に彼は火の如何《いか》に焚《も》え、如何に燬《や》くや、と厳《おごそか》に監《み》るが如く眥《まなじり》を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焔《ほのほ》との相雑《あひまじは》り、相争《あひあらそ》ひ、相勢《あひきほ》ひて、力の限を互に奮《ふる》ふをば、妙《いみじ》くも為《し》たりとや、漫《そぞろ》笑《ゑみ》を洩《もら》せる顔色《がんしよく》はこの世に匹《たぐ》ふべきものありとも知らず。
 風の暴頻《あれしき》る響動《どよみ》に紛れて、寝耳にこれを聞着《ききつく》る者も無かりければ、誰一人|出《いで》て噪《さわ》がざる間に、火は烈々《めらめら》と下屋《げや》に延《し》きて、厨《くりや》の燃立つ底より一声|叫喚《きようかん》せるは誰《たれ》、狂女は※[#「※」は「口+喜」、273−16]々《きき》として高く笑ひぬ。

     (七) の 二

 人々出合ひて打騒《うちさわ》ぐ比《ころほひ》には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔《ほのほ》を出《いだ》し、はや如何《いか》にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風《ごうふう》なりしかど、消防|力《つと》めたりしに拠《よ》りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に※[#「※」は「しんにょう+台」、274−5]《およ》びて鎮火するを得たり。雑踏の裏《うち》より怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りも遣《やら》ざりしが捕《とらは》れしなり。
 火元と認定せらるる鰐淵方《わにぶちかた》は塵一筋《ちりひとすぢ》だに持出《もちいだ》さずして、憐《あはれ》むべき一片の焦土を遺《のこ》したるのみ。家族の消息は直《ただ》ちに警察の訊問《じんもん》するところとなりぬ。婢《をんな》は命|辛々《からがら》迯了《にげおほ》せけれども、目覚むると斉《ひとし》く頭面《まくらもと》は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨《よびすて》にして走り出《い》でければ、主《あるじ》たちは如何《いか》になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過《あやまち》など有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。
 熱灰《ねつかい》の下より一体の屍《かばね》の半《なかば》焦爛《こげただ》れたるが見出《みいだ》されぬ。目も当てられず、浅ましう悒《いぶせ》き限を尽したれど、主《あるじ》の妻と輙《たやす》く弁ぜらるべき面影《おもかげ》は焚残《やけのこ》れり。さてはとその邇《ちか》くを隈無《くまな》く掻起《かきおこ》しけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚《おぼし》き辺《あたり》より始めて焦壊《こげくづ》れたる人骨を掘出《ほりいだ》せり。酔《ゑ》ひて遁惑《にげまど》ひし故《ゆゑ》か、貪《むさぼ》りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦《あるじふうふ》はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟《けふり》となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓《もと》むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔《ちようえんたんえん》の紛糾する処に、独《ひと》り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。
 別居せる直道《ただみち》は旅行中にて未《いま》だ還《かへ》らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着《かけつ》けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈《てはず》なりければ、今は全く癒《い》えて務を執るをも妨げざれど、事の極《きは》めて不慮なると、急激なると、瑣小《さしよう》ならざるとに心惑《こころまどひ》のみせられて、病後の身を以《も》てこれに当らんはいと苦《くるし》かりけるを、尽瘁《じんすい》して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。
 枕をも得挙《えあ》げざりし病人の今かく健《すこやか》に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑《かたくな》にも強かりしを、
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