あらずや、と台所の小窓より差覗《さしのぞ》けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主《あるじ》に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃《あとさきぶぞろひ》に泣いつ怒りつ訴ふるなり。

     第 七 章

 子の讐《かたき》なる直行が首を獲《え》んとして夕々《ゆふべゆふべ》に狂女の訪ひ来ること八日に※[#「※」は「しんにょう+台」、269−8]《およ》べり。浅ましとは思へど、逐《お》ひて去らしむべきにあらず、又|門口《かどぐち》に居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措《すておか》るるなりき。直行が言へりし如く、畢竟《ひつきよう》彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太《はなは》だ択《えら》ばざるべけれど、縮緬《ちりめん》の被風《ひふ》着たる人の形の黄昏《たそが》るる門の薄寒きに踞《つくば》ひて、灰色の剪髪《きりがみ》を掻乱《かきみだ》し、妖星《ようせい》の光にも似たる眼《まなこ》を睨反《ねめそら》して、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤《いか》り、己《おのれ》の胸のやうに際《そこひ》も知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲《かなしみ》と恨とを訴へ、腥《なまぐさ》き油紙を拈《ひね》りては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終《つひ》にはこの家に祟《たたり》を作《な》すべき望を繋《か》くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈《つんざ》き、巌《いはほ》を砕くの例《ためし》、ましてや家を滅《めつ》し、人を鏖《みなごろし》にすなど、塵《ちり》を吹くよりも易《やす》かるべきに、可恐《おそろ》しや事無くてあれかしと、お峯は独《ひと》り謂知《いひし》らず心を傷《いた》むるなり。
 夫は決《け》して雅之の私書偽造を己《おのれ》の陥れし巧《たくみ》なりとは彼に告げざれば、悪は正《まさし》く狂女の子に在りて、此方《こなた》に恨を受くべき筋は無く、自《おのづか》らかかる事も出来《いでく》るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒《かしだふれ》の損耗あるを思へば、所詮《しよせん》仆《たふ》し、仆さるるは商《あきなひ》の習と、お峯は自《おのづか》ら意《こころ》を強うして、この老女《ろうによ》の狂《くるひ》を発せしを、夫の為《な》せる業《わざ》とは毫《つゆ》も思ひ寄《よす》るにあらざりき。さは謂《い》へ、人の親の切なる情《なさけ》を思へば、実《げ》にさぞと肝に徹《こた》ふる節無《ふしな》きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇《あやし》き殃《わざはひ》にも遭《あ》ふなればと唯思過《ただおもひすご》されては窮無《きはまりな》き恐怖《おそれ》の募るのみ。
 日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時《しばらく》門《かど》に居て動かざるは、その妄執《もうしゆう》の念力《ねんりき》を籠《こ》めて夫婦を呪《のろ》ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬《たと》へん方無く悩されぬ。されば狂女の門《かど》に在る間は、大御明尊《おおみあかしのみこと》の御前《おんまへ》に打頻《うちしき》り祝詞《のりと》を唱ふるにあらざれば凌《しの》ぐ能《あた》はず。かかる中《うち》にも心に些《ちと》の弛《ゆるみ》あれば、煌々《こうこう》と耀《かがや》き遍《わた》れる御燈《みあかし》の影《かげ》遽《にはか》に晦《くら》み行きて、天尊《てんそん》の御像《みかたち》も朧《おぼろ》に消失《きえう》せなんと吾目《わがめ》に見ゆるは、納受《のうじゆ》の恵に泄《も》れ、擁護《おうご》の綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠《こ》め、烟《けむり》を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。槍《やり》は降りても必ず来《く》べし、と震摺《おぢおそ》れながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何《いか》にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返《さえかへ》りたるこの日の寒気は鍼《はり》もて膚《はだへ》に霜を種《う》うらんやうに覚えしめぬ。外には烈風《はげしきかぜ》怒《いか》り号《さけ》びて、樹を鳴し、屋《いへ》を撼《うごか》し、砂を捲《ま》き、礫《こいし》を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃《ほこり》に蔽《おほは》れて、一天|晦《くら》く乱れ、日色《につしよく》黄《き》に濁りて、殊《こと》に物可恐《ものおそろし》き夕暮の気勢《けはひ》なり。
 鰐淵が門《かど》の燈《ともし》は硝子《ガラス》を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆《くつがへ》りたり。内の燈火《あかし》は常より鮮《あざやか》に主《あるじ》が晩酌の喫台《ちやぶだい》を照し、火鉢《ひばち》に架《か》けたる鍋《なべ》の物は沸々
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