端無《はしな》く人の呼ぶに駭《おどろか》されて、漸《やうや》く慵《ものう》き枕を欹《そばだ》てつ。
愕然《がくぜん》として彼は瞳《ひとみ》を凝《こら》せり。ベッドの傍《かたはら》に立てるは、その怪き夢の中に顕《あらは》れて、終始|相離《あひはな》れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視《み》れども訪来《とひきた》れる満枝に紛《まぎれ》あらざりき。とは謂《い》へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中《うち》なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺《あたり》も可輝《かがやかし》く、五六歳《いつつむつ》ばかりも若《わかや》ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路《むそぢ》に余れる夫有《つまも》てる身と誰《たれ》かは想ふべき。
髪を台湾銀杏《たいわんいちよう》といふに結びて、飾《かざり》とてはわざと本甲蒔絵《ほんこうまきゑ》の櫛《くし》のみを挿《さ》したり。黒縮緬《くろちりめん》の羽織に夢想裏《むそううら》に光琳風《こうりんふう》の春の野を色入《いろいり》に染めて、納戸縞《なんどじま》の御召の下に濃小豆《こいあづき》の更紗縮緬《さらさちりめん》、紫根七糸《しこんしちん》に楽器尽《がつきつくし》の昼夜帯して、半襟《はんえり》は色糸の縫《ぬひ》ある肉色なるが、頸《えり》の白きを匂《にほ》はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛《きらきら》と煩《うるさ》し。今日は殊《こと》に推《お》して来にけるを、得堪《えた》へず心の尤《とが》むらん風情《ふぜい》にて佇《たたず》める姿《すがた》限無《かぎりな》く嬌《なまめ》きて見ゆ。
「お寝《やすみ》のところを飛んだ失礼を致しました。私《わたくし》上《あが》る筈《はず》ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些《ちよつ》と伺ひましたのでございますから、今日《こんにち》のところはどうか御堪忍《ごかんにん》あそばして」
彼の許《ゆるし》を得んまでは席に着くをだに憚《はばか》る如く、満枝は漂《ただよは》しげになほ立てるなり。
「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」
内に燃ゆる憤《いかり》を抑《おさ》ふるとともに貫一の言《ことば》は絶えぬ。
「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜《よろし》いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」
「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」
「あら、そんなことを有仰《おつしや》らずに……」
「失礼します。今日《こんにち》は腰の傷部《きず》が又痛みますので」
「おや、それは、お劇《きつ》いことはお在《あん》なさらないのでございますか」
「いえ、なに」
「どうぞお楽に在《ゐら》しつて」
貫一は無雑作に郡内縞《ぐんないじま》の掻巻《かいまき》引被《ひきか》けて臥《ふ》しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤《まめやか》に冊《かしづ》きて、やがて己《おのれ》も始めて椅子に倚《よ》れり。
「貴方《あなた》の前でこんな事は私申上げ難《にく》いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰《おつしや》るので、湯島《ゆしま》の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定|可厭《いやらし》い事をもうもう執濃《しつこ》く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑《うたぐ》つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効《としがひ》の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召《おぼしめ》してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯《たはむ》れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取《と》んだ八当《やつあたり》で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪《あし》からず……。
今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜《よろし》いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些《ちよつと》でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜《きらひぬ》いてお在《いで》あそばす私《わたくし》のやうな者と訳でもあるやうに有仰《おつしや》られるのは、さぞお辛くてゐらつしやい
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