ませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦《あきら》め遊ばしまし。
 貴方も因果なれば、私も……私は猶《なほ》因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂《い》ふのでございませうね」
 金煙管《きんぎせる》の莨《たばこ》の独《ひと》り杳眇《ほのぼの》と燻《くゆ》るを手にせるまま、満枝は儚《はかな》さの遣方無《やるかたな》げに萎《しを》れゐたり。さるをも見向かず、答《いら》へず、頑《がん》として石の如く横《よこた》はれる貫一。
「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切《せめ》てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透《とほ》つたやうな気が致すのでございます。
 間さん。貴方は過日《いつぞや》私がこんなに思つてゐることを何日《いつ》までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何《いかが》なのでございますよ」
 勢ひて問詰むれば、極《きは》めて事も無げに、
「忘れません」
 満枝は彼の面《おもて》を絶《したたか》に怨視《うらみみ》て瞬《またたき》も為《せ》ず、その時人声して闥《ドア》は徐《しづか》に啓《あ》きぬ。
 案内せる附添の婆《ばば》は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑《こころまどひ》せらるる体《てい》にて、彼にさへ可慎《つつまし》う小声に言付けつつ名刺を渡せり。
 満枝は如何なる人かと瞥《ちら》と見るに、白髪交《しらがまじ》りの髯《ひげ》は長く胸の辺《あたり》に垂れて、篤実の面貌痩《おもざしや》せたれども賤《いやし》からず、長《たけ》は高しとにあらねど、素《もと》より※[#「※」は「月+叟」、250−1]《ゆたか》にもあらざりし肉の自《おのづか》ら齢《よはひ》の衰《おとろへ》に削れたれば、冬枯の峰に抽《ぬ》けるやうに聳《そび》えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽《おくゆかし》くて、誰とも知らねどさすがに疎《おろそか》ならず覚えて、彼は早くもこの賓《まらうど》の席を設けて待てるなりき。
 貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三《しぎさわりゆうぞう》と誌《しる》したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕《おどろき》に駆れて、忽《たちま》ち身を飜《ひるがへ》して其方《そなた》を見向かんとせしが、幾《ほとん》ど同時に又枕して、終《つひ》に動かず。狂ひ出でんずる息を厳《きびし》く閉ぢて、燃《もゆ》るばかりに瞋《いか》れる眼《まなこ》は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹《つつ》める一点の涙は不覚に滾《まろ》び出《い》でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、
「此方《こちら》へお通し申しませうで……」
「知らん!」
「はい?」
「こんな人は知らん」
 人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜《けがらは》しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強《し》ひて目を塞《ふさ》ぎ、身の顫《ふる》ふをば吾と吾手に抱窘《だきすく》めて、恨は忘れずとも憤《いかり》は忍ぶべしと、撻《むちう》たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪《さかだ》ち蠢《うごめ》きて、頭脳の裏《うち》に沸騰《わきのぼ》る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫《みだれさ》すなり。彼はこれと争ひて猶《なほ》も抑へぬ。面色は漸《やうや》く変じて灰の如し。婆は懼《おそ》れたる目色《めざし》を客の方へ忍ばせて、
「御存じないお方なので?」
「一向知らん。人違だらうから、断《ことわ》つて返すが可い」
「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰《おつしや》つてお尋ね……」
「ああ、何でも可いから早く断つて」
「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」

     (五) の 二

 婆は鴫沢《しぎさわ》の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様《うしろさま》に束《つか》ねたるままに受取らで、強《し》ひて面《おもて》を和《やはら》ぐるも苦しげに見えぬ。
「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分《だいぶ》久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜《よろし》い。私《わし》が直《ぢか》にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」
 屹《き》と思案せる鴫沢の椅子ある方《かた》に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦《すす》めぬ。
「貫一さん、私《わし》だよ。久う会はんので忘れられたかのう」
 室の隅《すみ》に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或《あるひ》は指図もし、又自ら持来《もちきた》りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるな
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