礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念《おも》うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻《しりぞく》るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措《お》けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌《きら》はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」
赤髭《あかひげ》を拈《ひね》り拈りて、直行は女の気色《けしき》を偸視《ぬすみみ》つ。
「さやうでございます。お年寄は勿論《もちろん》結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」
「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」
「それでございますから、もうもう口喧《くちやかまし》くてなりませんのです」
「ぢや、口喧うも、気難《きむづかし》うもなうたら、どうありますか」
「それでも私好きませんでございますね」
「それでも好かん? 太《えら》う嫌うたもんですな」
「尤《もつと》も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方《こつち》から好きましても、他《さき》で嫌はれましては、何の効《かひ》もございませんわ」
「さやう、な。けど、貴方《あんた》のやうな方が此方《こつち》から好いたと言うたら、どんな者でも可厭《いや》言ふ者は、そりや無い」
「あんな事を有仰《おつしや》つて! 如何《いかが》でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」
「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」
椅子も傾くばかりに身を反《そら》して、彼はわざとらしく揺上《ゆりあ》げ揺上げて笑ひたりしが、
「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」
「如何《いかが》ですか、さう云ふ事は」
誰《たれ》か烏《からす》の雌雄《しゆう》を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯《うそぶ》けり。
「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」
「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈《はず》はございませんわ。ほほほほほほほほ」
そのわざとらしさは彼にも遜《ゆづ》らじとばかり、満枝は笑ひ囃《はや》せり。
直行が眼《まなこ》は誰を見るとしも無くて独《ひと》り耀《かがや》けり。
「それでは私もうお暇《いとま》を致します」
「ほう、もう、お帰去《かへり》かな。私《わし》もはや行かん成らんで、其所《そこ》まで御一処に」
「いえ、私|些《ちよつ》と、あの、西黒門町《にしくろもんちよう》へ寄りますでございますから、甚《はなは》だ失礼でございますが……」
「まあ、宜《よろし》い。其処《そこ》まで」
「いえ、本当に今日《こんにち》は……」
「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座《あさひざ》の株式一件な、あれがつい纏《まとま》りさうぢやで、この際お打合《うちあはせ》をして置かんと、『琴吹《ことぶき》』の収債《とりたて》が面白うない。お目に掛つたのが幸《さいはひ》ぢやから、些《ちよつ》とそのお話を」
「では、明日《みようにち》にでも又、今日は些《ち》と急ぎますでございますから」
「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」
姑《しばら》く推《おし》問答の末彼は終《つひ》に満枝を拉《らつ》し去れり。迹《あと》に貫一は悪夢の覚めたる如く連《しきり》に太息《ためいき》※[#「※」は「口+句」、245−14]《つ》いたりしが、やがて為《せ》ん方無げに枕《まくら》に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方《かた》に、止《た》だ果無《はてしな》く目を奪れゐたり。
第 五 章
檜葉《ひば》、樅《もみ》などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯|麗《うららか》なる日影のみぞ饒《ゆたか》に置余《おきあま》して、そこらの梅の点々《ぼちぼち》と咲初めたるも、自《おのづか》ら怠り勝に風情《ふぜい》作らずと見ゆれど、春の色香《いろか》に出《い》でたるは憐《あはれ》むべく、打霞《うちかす》める空に来馴《きな》るる鵯《ひよ》のいとどしく鳴頻《なきしき》りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々《せきせき》たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩《ゆる》う行くなり。
枕の上の徒然《つれづれ》は、この時人を圧して殆《ほとん》ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛《から》うじて夢を結びゐたり。彼は実《げ》に夢ならでは有得べからざる怪《あやし》き夢に弄《もてあそ》ばれて、躬《みづから》も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡《ねむり》の中に囚《とらは》れしを、
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