》を向きて、覚めながら目を塞《ふさ》ぎていと静に臥《ふ》したり。附添婆《つきそひばば》の折から出行《いでゆ》きしを候《うかが》ひて、満枝は椅子を躙《にじ》り寄せつつ、
「間《はざま》さん、間さん。貴方《あなた》、貴方」
と枕の端《はし》を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方《あなた》へ廻り行きて、彼の寐顔《ねがほ》を差覗《さしのぞ》きつ。
「間さん」
猶答へざりけるを、軽く肩の辺《あたり》を撼《うごか》せば、貫一はさるをも知らざる為《まね》はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐《なつか》しげに差寄りたる態《かたち》を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、
「私《わたくし》貴方に些《ちよつ》とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」
「あ、まだ在《ゐら》しつたのですか」
「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」
「…………」
「外でもございませんが……」
彼の隔《へだて》無く身近に狎《な》るるを可忌《うとま》しと思へば、貫一はわざと寐返《ねがへ》りて、椅子を置きたる方《かた》に向直り、
「どうぞ此方《こちら》へ」
この心を暁《さと》れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇《あつか》はれながら、なほこの人を慕はでは已《や》まぬ我身かと、効《かひ》無くも余に軽く弄《もてあそ》ばるるを可愧《はづかし》うて佇《たたず》みたり。されども貫一は直《すぐ》に席を移さざる満枝の為に、再び言《ことば》を費さんとも為《せ》ざりけり。
気嵩《きがさ》なる彼は胸に余して、聞えよがしに、
「※[#「※」は「口+矣」、236−3]《ああ》、貴方には軽蔑《けいべつ》されてゐる事を知りながら、何為《なぜ》私《わたくし》腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」
満枝は彼の枕を捉《とら》へて顫《ふる》ひしが、貫一の寂然《せきぜん》として眼《まなこ》を閉ぢたるに益《ますます》苛《いらだ》ちて、
「余《あんま》り酷《ひど》うございますよ。間さん、何とか有仰《おつしや》つて下さいましな」
彼は堪へざらんやうに苦《にが》りたる口元を引歪《ひきゆが》めて、
「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有《ありがた》迷惑で……」
「何と有仰《おつしや》います!」
「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」
「貴方、何と……!!」
満枝は眉《まゆ》を昂《あ》げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼《まなこ》を塞《ふた》ぎぬ。
素《もと》より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己《おのれ》に対しては更に甚《はなはだし》きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管《てくだ》は、今その外《おもて》に顕《あらは》せるやうに決《け》して内に怺《こら》へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍《いさか》ふも、また※[#「※」は「りっしんべん+(篋−竹)」、236−15]《かな》はざる恋の内に聊《いささ》か楽む道なるを思へるなり。涙|微紅《ほのあか》めたる※[#「※」は「目+匡」、236−15]《まぶた》に耀《かがや》きて、いつか宿せる暁《あかつき》の葩《はなびら》に露の津々《しとど》なる。
「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私《わたくし》も貴方に度々《たびたび》来て戴くのは甚《はなは》だ迷惑なのですから」
「御迷惑は始から存じてをります」
「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」
「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」
「まあ、さうです」
「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶《うつと》しがつて、如何《いか》に何でもそんなに作《なさ》るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮《こま》つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭《いや》なことを有仰《おつしや》つたのです。私|些《ちつと》もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」
聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答《うけこたへ》だに為《せ》ざるなり。
「実は疾《とう》からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭《いや》な事を自分の口から吹聴らしく、却《かへ》つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵|様《さん》のかれこれ有仰《おつしや》るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮《こま》つてをるのでご
前へ
次へ
全177ページ中85ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング