いわ。そんなら、さうで私にも了簡《りようけん》があるから、どうとも私は自分で為るわ」
「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」
「…………」
「帰つたら阿父《おとつ》さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」
「だから、阿母《おつか》さんは私の心を知らないのだから、頼効《たのみがひ》が無い、と謂《い》ふのよ」
「多度《たんと》お言ひな」
「言ふわ」
真顔作れる母は火鉢《ひばち》の縁《ふち》に丁《とん》と煙管《きせる》を撃《はた》けば、他行持《よそゆきもち》の暫《しばら》く乾《から》されて弛《ゆる》みし雁首《がんくび》はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。
第 四 章
頭部に受けし貫一が挫傷《ざしよう》は、危《あやふ》くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体《したい》に数個所《すかしよ》の傷部とともに、その免るべからざる若干《そくばく》の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復《こうふく》の歩を趁《お》ひて、可艱《なやま》しげにも自ら起居《たちゐ》を扶《たす》け得る身となりければ、一日一夜を為《な》す事も無く、ベッドの上に静養を勉《つと》めざるべからざる病院の無聊《ぶりよう》をば、殆《ほとん》ど生きながら葬られたらんやうに倦《う》み困《こう》じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。
主治医も、助手も、看護婦も、附添婆《つきそひばば》も、受附も、小使も、乃至《ないし》患者の幾人も、皆目を側《そば》めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁《しげしげ》病《やまひ》を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入《しゆつにゆう》するなれば、噂《うはさ》は自《おのづ》から院内に播《ひろま》りて、博士の某《ぼう》さへ終《つひ》に唆《そそのか》されて、垣間見《かいまみ》の歩をここに枉《ま》げられしとぞ伝へ侍《はべ》る。始の程は何者の美形《びけい》とも得知れざりしを、医員の中に例の困《くるし》められしがありて、名著《なうて》の美人《びじ》クリイムと洩《もら》せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦《よろこば》す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。
さりとは彼の暁《さと》るべき由無けれど、何の廉《かど》もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽《おもて》にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂《い》へ、こは情《なさけ》の掛※[#「※」は「(箆−竹−比)/民」、233−17]《かけわな》と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人《ひととなり》を悪《にく》みて、その貌《かたち》の美きを見ず、その思切《おもひせつ》なるを汲まんともせざるに、猶《なほ》かつ主《ぬし》ある身の謬《あやま》りて仇名《あだな》もや立たばなど気遣《きづか》はるるに就けて、貫一は彼の入来《いりく》るに会へば、冷き汗の湧出《わきい》づるとともに、創所《きずしよ》の遽《にはか》に疼《うづ》き立ちて、唯異《ただあやし》くも己《おのれ》なる者の全く痺《しび》らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤《とが》むれども効《かひ》無かりけり。実《げ》に彼は日頃この煩《わづらひ》を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横《よこた》はれれば、宛然《さながら》爼板《まないた》に上れる魚《うを》の如く、空《むなし》く他の為すに委《まか》するのみなる仕合《しあはせ》を、掻※[#「※」は「てへん+劣」、234−7]《かきむし》らんとばかりに悶《もだ》ゆるなり。
かかる苦《くるし》き枕頭《まくらもと》に彼は又驚くべき事実を見出《みいだ》しつつ、飜《ひるが》へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮《およ》べる迷惑は、その藁蒲団《わらぶとん》の内に針《はり》の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分《さんぶ》を患《わづら》ひて、内に却《かへ》つて七分《しちぶ》を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念《けねん》せしが、果して鰐淵《わにぶち》は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略《ほぼ》推《すい》し得たるなり。
例の煩《わづらし》き人は今日も訪《と》ひ来《き》つ、しかも仇《あだ》ならず意《こころ》を籠《こ》めたりと覚《おぼし》き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付《よせつ》けじとやうに彼方《あなた
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