りも儚《はかな》き昔の恋を思ひて、私《ひそか》に楽むの味《あぢはひ》あるを覚ゆるなり。
かくなりてより彼は自《おのづか》ら唯継の面前を厭《いと》ひて、寂く垂籠《たれこ》めては、随意に物思ふを懌《よろこ》びたりしが、図らずも田鶴見《たずみ》の邸内《やしきうち》に貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度《ひとたび》は絶えし恋ながら、なほ冥々《めいめい》に行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容《かたち》なるを、今もその独《ひとり》を守りて、時の到るを待つらんやうに思做《おもひな》さるるなりけり。
その時は果して到るべきものなるか。宮は躬《みづから》の心の底を叩《たた》きて、答を得るに沮《はば》みつつも、さすがに又|己《おのれ》にも知れざる秘密の潜める心地《ここち》して、一面には覚束《おぼつか》なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。
便《すなは》ち宮の夫の愛を受くるを難堪《たへがた》く苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面《レンズ》の前に悶絶《もんぜつ》せし日よりにて、その恋しさに取迫《とりつ》めては、いでや、この富めるに※[#「※」は「厭/食」、読みは「あ」、222−1]き、裕《ゆたか》なるに倦《う》める家を棄つべきか、棄てよとならば遅《ためら》はじと思へるも屡々《しばしば》なりき。唯敢《ただあへ》てこれを為《せ》ざるは、窃《ひそか》に望は繋《か》けながらも、行くべき方《かた》の怨《うらみ》を解かざるを虞《おそ》るる故《ゆゑ》のみ。
素《もと》より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂《おも》へらく、吾夫《わがをつと》こそ当時恋と富との値《あたひ》を知らざりし己を欺き、空《むなし》く輝ける富を示して、售《う》るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他《ひと》に被《き》せて、彼は己を過《あやま》りしをば、全く夫の罪と為《な》せり。
この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍《しの》ばるるに就《つ》けて転《うた》た悪人の夫を厭ふこと甚《はなはだし》かり。無辜《むこ》の唯継はかかる今宵の楽《たのしみ》を授《さづく》るこの美き妻を拝するばかりに、有程《あるほど》の誠を捧げて、蜜《みつ》よりも甘き言《ことば》の数々を※[#「※」は「口+耳」、222−10]《ささや》きて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいと能《よ》く響きたる。
その雪は明方になりて歇《や》みぬ。乾坤《けんこん》の白きに漂ひて華麗《はなやか》に差出でたる日影は、漲《みなぎ》るばかりに暖き光を鋪《し》きて終日《ひねもす》輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来《ゆきき》の妨碍《さまたげ》もあらず、処々《ところどころ》の泥濘《ぬかるみ》は打続く快晴の天《そら》に曝《さら》されて、刻々に乾《かわ》き行くなり。
この雪の為に外出《そとで》を封ぜられし人は、この日和《ひより》とこの道とを見て、皆|怺《こら》へかねて昨日《きのふ》より出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の宜《よろし》からぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折《つづらをり》、或《ある》は捏返《こねかへ》せし汁粉《しるこ》の海の、差掛りて難儀を極《きは》むるとは知らず、見渡す町通《まちとほり》の乾々干《からからほし》に固《かたま》れるに唆《そその》かされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来《ゆきき》の常より頻《しきり》なる午前十一時といふ頃、屈《かが》み勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣《ころも》掛けたる車輪を可悩《なやま》しげに転《まろば》して、黒綾《くろあや》の吾妻《あづま》コオト着て、鉄色縮緬《てついろちりめん》の頭巾《づきん》を領《えり》に巻きたる五十路《いそぢ》に近き賤《いやし》からぬ婦人を載せたるが、南の方《かた》より芝飯倉通《しばいいぐらとおり》に来かかりぬ。
唯有《とあ》る横町を西に切れて、某《なにがし》の神社の石の玉垣《たまがき》に沿ひて、だらだらと上《のぼ》る道狭く、繁《しげ》き木立に南を塞《ふさ》がれて、残れる雪の夥多《おびただし》きが泥交《どろまじり》に踏散されたるを、件《くだん》の車は曳々《えいえい》と挽上《ひきあ》げて、取着《とつき》に土塀《どべい》を由々《ゆゆ》しく構へて、門《かど》には電燈を掲げたる方《かた》にぞ入《い》りける。
こは富山唯継が住居《すまひ》にて、その女客は宮が母なり。主《あるじ》は疾《とく》に会社に出勤せし後にて、例刻に来《きた》れる髪結の今方|帰行《かへりゆ》きて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重《もんはぶたへ》の肉色鹿子《
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