り》しつつ、器具と壜《ボトル》とをテエブルに置きて、直《ぢき》に退《まか》り出《い》でぬ。かく執念《しゆうね》く愛せらるるを、宮はなかなか憂《う》くも浅ましくも思ふなりけり。
雪は風を添へて掻乱《かきみだ》し掻乱し降頻《ふりしき》りつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜の漸《やうや》く来《きた》れるが最辱《いとかたじけな》き唯継の目尻なり。
「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、俺《おれ》にはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠《ひつこ》んでをるのが宜《よろし》くないよ。この頃は些《ちよつ》とも出掛けんぢやないか。さう因循《いんじゆん》してをるから、益《ますま》す陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴《としば》の奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為《なぜ》近頃は奥さんは些《ちよつ》ともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然《まるつきり》影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞《しまひ》込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しは衆《ひと》にも見せてお遣《や》んなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積《ふくづみ》が当選したらう。俺も大《おほ》いに与《あづか》つて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第《すみしだい》別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中《れんじゆう》を招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行《である》かれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好《よ》いけれど、然し、近頃のやうに籠《こも》つてばかり居《を》るのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年《はんとし》ばかり経《た》つてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分|彼地此地《あちこち》出たぢやないかね。
善し、珈琲《カフヒイ》出来たか。うう熱い、旨《うま》い。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋は未《まだ》か。うむ、彼方《あつち》に支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢《ながひばち》の相対《さしむかひ》に限るんさ。
可いかね、福積の招待《しようだい》には吃驚《びつくり》させるほど美《うつくし》くして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速|拵《こしら》へやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装《なり》で、隆《りゆう》として推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装《なり》にかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍《ねぼ》けたのばかりは恐れるね。何為《なぜ》あの被風《ひふ》を着ないのかね、あれは好く似合ふにな。
明後日《あさつて》は日曜だ、何処《どこ》かへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原《かしわばら》の奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ度《たび》に聒《やかまし》く催促するんで克《かな》はんよ。明日《あした》は用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんと拙《まづ》いて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日《あさつて》写しに行かう。直《ずつ》と若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。
善し、寄鍋が来た? さあ行かう」
夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに姑《しばら》く窓の外面《そとも》を窺《うかが》ひたりしが、
「どうしてこんなに降るのでせう」
「何を下《くだ》らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」
第 三 章
宮は既に富むと裕《ゆたか》なるとに※[#「※」は「厭/食」、221−5]《あ》きぬ。抑《そもそ》も彼がこの家に嫁《とつ》ぎしは、惑深《まどひふか》き娘気の一図に、栄耀《えいよう》栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、殆《ほとん》ど無用の物のやうに軽《かろし》めたりき。今やその願足りて、しかも遂《つひ》に※[#「※」は「厭/食」、読みは「あ」、221−7]きたる彼は弥《いよい》よ※[#「※」は「夕/寅」、221−8]《まつは》らるる愛情の煩《わづらはし》きに堪《た》へずして、寧《むし》ろ影を追ふよ
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