下婢《かひ》とに万般《よろづ》の煩《わづらはし》きを委《まか》せ、一日何の為《な》すべき事も無くて、出《い》づるに車あり、膳《ぜん》には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆|悦《よろこ》ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実《げ》に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正《まさ》に己《おのれ》のこの身の上なる哉《かな》、と宮は不覚《そぞろ》胸に浮べたるなり。
 嗟乎《ああ》、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余《あまり》に、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮《きは》めし楽《たのしみ》も、五年《いつとせ》の昔なりける今日の日に窮《きは》めし悲《かなしみ》に易《か》ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息《ためいき》したり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶《とも》に同じき楽《たのしみ》を享《う》けんと願ひしに外ならざるを。若《も》し身の楽《たのしみ》と心の楽《たのしみ》とを併享《あはせう》くべき幸無《さちな》くて、必ずその一つを択《えら》ぶべきものならば、孰《いづれ》を取るべきかを知ることの晩《おそ》かりしを、遣方《やるかた》も無く悔ゆるなりけり。
 この寒き日をこの煖《あたたか》き室《しつ》に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何《いか》に、と思到れる時、宮は殆《ほとん》ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜《くちを》しさを悶《もだ》えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面《そとも》を何心無く打見遣《うちみや》れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇《はげし》く動きて、宮は降頻《ふりしき》る雪に或言《あることば》を聴くが如く佇《たたず》めり。折から唯継は還来《かへりきた》りぬ。静に啓《あ》けたる闥《ドア》の響は絶《したたか》に物思へる宮の耳には入《い》らざりき。氷の如く冷徹《ひえわた》りたる手をわりなく懐《ふところ》に差入れらるるに驚き、咄嗟《あなや》と見向かんとすれば、後より緊《しか》と抱《かか》へられたれど、夫の常に飭《たしな》める香水の薫《かをり》は隠るべくもあらず。
「おや、お帰来《かへり》でございましたか」
「寒かつたよ」
「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」
「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」
 宮は楽椅子を夫に勧めて、躬《みづから》は煖炉《ストオブ》の薪《たきぎ》を※[#「※」は「火+(竣−立)」、217−13]《く》べたり。今の今まで貫一が事を思窮《おもひつ》めたりし心には、夫なる唯継にかく事《つか》ふるも、なかなか道ならぬやうにて屑《いさぎよ》からず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、梢《こずゑ》に宿れる雪、庭に布《し》く雪、見ゆる限の白妙《しらたへ》は、我身に積める人の怨《うらみ》の丈《たけ》かとも思ふに、かくてあることの疚《やま》しさ、切なさは、脂《あぶら》を搾《しぼ》らるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その脚《あし》を八文字に踏展《ふみはだ》け、漸《やうや》く煖まれる頤《おとがひ》を突反《つきそら》して、
「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋《よせなべ》で飲むんだね。寄鍋を取つて貰《もら》はう、寄鍋が好い。それから珈琲《カフヒイ》を一つ拵《こしら》へてくれ、コニャックを些《ち》と余計に入れて」
 宮の行かんとするを、
「お前、行かんでも可いぢやないか、要《い》る物を取寄せてここで拵へなさい」
 彼の電鈴《でんれい》を鳴して、火の傍《そば》に寄来ると斉《ひとし》く、唯継はその手を取りて小脇《こわき》に挾《はさ》みつ。宮は懌《よろこ》べる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。
「おまへどうした、何を鬱《ふさ》いでゐるのかね」
 引寄せられし宮はほとほと仆《たふ》れんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩《す》るばかりにその顔を差覗《さしのぞ》きて余念も無く見入りつつ、
「顔の色が甚《はなは》だ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い? どうしたんだな。それぢや、もつと爽然《はつきり》してくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合《じようあひ》が薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」
 忽《たちま》ち闥《ドア》の啓《あ》くと見れば、仲働《なかばたらき》の命ぜし物を持来《もちきた》れるなり。人目を憚《はばか》らずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその傍《そば》を退《の》かんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ風《ふ
前へ 次へ
全177ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング