か」
「大変|難《むづかし》く成りましたのね。さうですね、それは那箇《どつち》かが非《わる》い事も有りませう。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは齢《とし》に在るので御座いますね」
「はあ、齢に在ると云ふと?」
「私共《わたくしども》の商買《しようばい》の者は善くさう申しますが、女の惚れるには、見惚《みぼれ》に、気惚《きぼれ》に、底惚《そこぼれ》と、かう三様《みとほり》有つて、見惚と云ふと、些《ちよい》と見たところで惚込んで了ふので、これは十五六の赤襟《あかえり》盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可いのですから、全《まる》で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から二十《はたち》そこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装《なり》の奇《おつ》なのなんぞには余《あんま》り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未《ま》だ未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、究竟《つまり》お肚《なか》の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も据《すわ》り、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら洒落気《しやれつき》の奴でも、さうさう上調子《うはちようし》に遣つちやゐられるものぢやありません。其処《そこ》は何と無く深厚《しんみり》として来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い切掛《きれか》け島田の中《うち》は』と云ふ唄《うた》の文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて心《しん》が一人前《いちにんまへ》に成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難ですね」
お静は一笑してコップを挙げぬ。貫一は連《しきり》に頷《うなづ》きて、
「誠に面白かつた。見惚《みぼれ》に気惚に底惚か。齢《とし》に在ると云ふのは、これは大きにさうだ。齢
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