》く其処《そこ》を考へて見てくれ。
 私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直《すぐ》に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番《ひとつ》奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少《すこ》しのところを辛抱して、いつその事|博士《はかせ》になつて喜ばしてくれんか」
 彼はさも思ひのままに説完《ときおほ》せたる面色《おももち》して、寛《ゆたか》に髯《ひげ》を撫《な》でてゐたり。
 貫一は彼の説進むに従ひて、漸《やうや》くその心事の火を覩《み》るより明《あきらか》なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄《ろう》して倦《う》まざるは、畢竟《ひつきよう》利の一字を掩《おほ》はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢《けが》れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或《あるひ》は穢れたる念を起し、或は穢れたる行《おこなひ》を為《な》すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈《あに》穢れたるの最も大なる者ならずや。
 世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独《ひと》り汚《けがれ》に染《そ》みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子《みなしご》を養へる志は、これを証して余《あまり》あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷《むご》くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯《ただ》一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐《いとし》き宮が事を思へるなり。
 我の愛か、死をもて脅《おびやか》すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某《なにがし》の帝《みかど》の冠《かむり》を飾れると聞く世界|無双《ぶそう》の大金剛石《だいこんごうせき》をもて購《あがな》はんとすとも、争《いか》でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥《おでい》の中《うち》に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱《いだ》きて、この世の渾《すべ》て穢れたるを忘れん。
 貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨《うらめ》しとは思ひつつも、枉《ま》げてさあらぬ体《てい》に聴きゐたるなりけり。
「それで、
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