は病客なるべきをと心釈《こころと》けては、はや目も遣らずなりける間《ひま》に、男は浴《ゆあ》み果てて、貸浴衣《かしゆかた》引絡《ひきまと》ひつつ出で行きけり。
暮色はいよいよ濃《こまやか》に、転激《うたたはげし》き川音の寒さを添ふれど、手寡《てずくな》なればや燈《あかり》も持|来《きた》らず、湯香《ゆのか》高く蒸騰《むしのぼ》る煙《けむり》の中に、独《ひと》り影暗く蹲《うづくま》るも、少《すこし》く凄《すさまじ》き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間《とこのま》には百合の花も在らず煌々《こうこう》たる燈火《ともしび》の下に座を設け、膳《ぜん》を据ゑて傍《かたはら》に手焙《てあぶり》を置き、茶器|食籠《じきろう》など取揃《とりそろ》へて、この一目さすがに旅の労《つかれ》を忘るべし。
先づ衣桁《いこう》に在りける褞袍《どてら》を被《かつ》ぎ、夕冷《ゆふびえ》の火も恋《こひし》く引寄せて莨《たばこ》を吃《ふか》しゐれば、天地|静《しづか》に石走《いはばし》る水の響、梢《こずゑ》を渡る風の声、颯々淙々《さつさつそうそう》と鳴りて、幽なること太古の如し。
乍《たちま》ちはたはたと跫音《あしおと》長く廊下に曳《ひ》いて、先のにはあらぬ小婢《こをんな》の夕餉《ゆふげ》を運び来《きた》れるに引添ひて、其処《そこ》に出でたる宿の主《あるじ》は、
「今日《こんにち》は好《よ》うこそ御越《おこ》し下さいまして、さぞ御労様《おつかれさま》でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下《くだ》し置れまして、甚《はなは》だ恐入りました儀で、難有《ありがた》う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。
ええ前以《ぜんもつ》てお詑《わび》を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些《ちよつ》と時候もお早いので、自然お客様のお越《こし》も御座りませんゆゑ、何分用意|等《とう》も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日《いちりようにち》中にはお麁末《そまつ》ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日《こんみようにち》のところは御勘弁を下さいまして、御寛《ごゆるり》と御逗留《ごとうりゆう》下さいまするやうに。――これ、早う御味噌汁《おみ
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