《ふつふつ》と薫《くん》じて、はや一銚子《ひとちようし》更《か》へたるに、未《いま》だ狂女の音容《おとづれ》はあらず。お峯は半《なかば》危みつつも幾分の安堵《あんど》の思を弄《もてあそ》び喜ぶ風情《ふぜい》にて、
「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎《いつ》もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了《しま》ひませうから。ああ、真《ほん》に天尊様の御利益《ごりやく》があつたのだ」
 夫が差せる猪口《ちよく》を受けて、
「お相《あひ》をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴《いただ》くとお美《いし》いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方《あなた》。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然《いよいよ》今晩は来ないと極《きま》りましたね。ぢや、戸締《とじまり》を為《さ》して了ひませうか、真《ほん》に今晩のやうな気の霽々《せいせい》した、心《しん》の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿《いのち》を短《ちぢ》めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒《ごしゆ》もお美《いし》いものですね。なあにあの婆さんが唯怖《ただこは》いのぢやありませんよ。それは気味《きび》は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄《すご》くて耐《たま》らないのです。あれが来ると、悚然《ぞつ》と、惣毛竪《そうけだ》つて体《からだ》が竦《すく》むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着《とつつか》れでもするやうな気がして、あの、それ、能《よ》く夢で可恐《おそろし》い奴なんぞに追懸《おつか》けられると、迯《に》げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」
 銚子を更《か》へて婢《をんな》の持来《もちきた》れば、
「金《きん》や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」
「好い塩梅《あんばい》でございます」
「お前には後でお菓子を御褒美《ごほうび》に出すからね。貴方《あなた》、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」
「あら可厭《いや》なことを有仰《おつしや》
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