に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪《と》られるやうな事があつたら、独《ひと》り間貫一|一《いつ》個人の恥辱ばかりではない、我々|朋友《ほうゆう》全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延《ひ》いて高等中学の名折《なをれ》にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一《いつ》にして結《むすぶ》の神に祷《いの》つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却《かへ》つて神罰が有ると、弄謔《からかひ》とは知れてゐるけれど、言草《いひぐさ》が面白かつたから、片端《かたつぱし》から引受けて呷々《ぐひぐひ》遣付《やつつ》けた。
 宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分|宜《よろし》く願ひます」
「可厭《いや》よ、もう貫一さんは」
「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥《いよい》よ僕の男が立たない義《わけ》だ」
「もう極《きま》つてゐるものを、今更……」
「さうでないです。この頃|翁《をぢ》さんや姨《をば》さんの様子を見るのに、どうも僕は……」
「そんな事は決《け》して無いわ、邪推だわ」
「実は翁さんや姨さんの了簡《りようけん》はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」
「私の心は極つてゐるわ」
「さうかしらん?」
「さうかしらんて、それぢや余《あんま》りだわ」
 貫一は酔《ゑひ》を支へかねて宮が膝《ひざ》を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬《ほほ》に、額に、手を加へて、
「水を上げませう。あれ、又|寐《ね》ちや……貫一さん、貫一さん」
 寔《まこと》に愛の潔《いさぎよ》き哉《かな》、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望《のぞみ》は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾《あつ》めて、富も貴きも、乃至《ないし》有《あら》ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶《とろか》されて、彼は唯妙《ただたへ》に香《かうばし》き甘露《かんろ》の夢に酔《ゑ》ひて前後をも知らざるなりけり。
 諸《もろもろ》の可忌《いまはし》き妄想《もうぞう》はこの夜の如く眼《まなこ》を閉ぢて、この一間《ひとま》に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明《あきらか》なる燈火《ともしび》の光の如きものありて、
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