い。頸《くび》を長くして待つてお在《いで》だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物《はきもの》はここに在るよ。なあに、おまへ私はね、※[#「※」は「さんずい+氣」、263−15]車《きしや》で行くから訳は無いとも」
かく言ふ間も忙《せは》しげに我が靴を脱ぎて、其処《そこ》に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結《なかゆひ》を釈きて、直行が前に上掛《うはがけ》の油紙を披《ひろ》げたり。
「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直《ぢき》に落ちるから、早く落してお了ひなさい」
さすがに持扱《もてあつか》ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖《ほそ》めて、何処《いづこ》より出づらんやとばかり世にも奇《あやし》き声を発《はな》ちて緩《ゆる》く笑ひぬ。彼は謂知《いひし》らぬ凄気《せいき》に打れて、覚えず肩を聳《そびや》かせり。
懲役と言ひ、雅之と言ふに因《よ》りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之《あくらまさゆき》は、私書偽造罪を以《も》つて彼の被告としてこの十数日|前《ぜん》、罰金十円、重禁錮《じゆうきんこ》一箇年に処せられしなり。実《げ》にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。
爾思《しかおも》へりしのみにて直行はその他に猶《なほ》も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀《はか》りて陥れたるなり。
彼等の用ゐる悪手段の中《うち》に、人の借《か》るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合《はなしあひ》の上は貸さんと称《とな》へて先《ま》づ誘《いざな》ひ、然《しか》る後、但《ただ》し証書の体《てい》を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然《しかるべ》き親族|知己《しるべ》などの名義を私用して、在合ふ印章を捺《お》さしめ、固《もと》より懇意上の内約なればその偽《いつはり》なるを咎《とが》めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一《いつ》は焦眉《しようび》の急に迫り、一《いつ》は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息《こそく》して、この術中には陥るなりけり。
期に※[#「
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