可難《むづか》しげに眉《まゆ》を寄せ、唇《くちびる》を引結びて、
「何者か知らんて、一向|心当《こころあたり》と謂うては無い。名は言はんて?」
「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」
「さうして今晩来るのか」
「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐《たま》りませんから、貴方本当に来ましたら、篤《とつく》り説諭して、もう来ないやうに作《なす》つて下さいよ」
「そりや受合へん。他《さき》が気違ぢやもの」
「気違だから私《わたし》も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」
「幾多《いくら》頼まれたてて、気違ぢやもの、俺《おれ》も為やうは無い」
 頼める夫《つま》のさしも思はで頼無《たのみな》き言《ことば》に、お峯は力落してかつは尠《すくな》からず心|慌《あわつ》るなり。
「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣《や》りませう」
 直行は打笑《うちわら》へり。
「まあ、そんなに騒がんとも可《え》え」
「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」
「誰も気違の好《え》えものは無い」
「それ、御覧なさいな」
「何じや」
 知らず、その老女《ろうによ》は何者、狂か、あらざるか、合力《ごうりよく》か、物売か、将《はた》主《あるじ》の知人《しりびと》か、正体の顕《あらは》るべき時はかかる裏《うち》にも一分時毎に近《ちかづ》くなりき。
 終日《ひねもす》灰色に打曇りて、薄日をだに吝《をし》みて洩《もら》さざりし空は漸《やうや》く暮れんとして、弥増《いやま》す寒さは怪《けし》からず人に逼《せま》れば、幾分の凌《しの》ぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖《ささ》れて、なほ稍明《ややあか》くその色|厚氷《あつこほり》を懸けたる如き西の空より、隠々《いんいん》として寂き余光の遠く来《きた》れるが、遽《にはか》に去るに忍びざらんやうに彷徨《さまよ》へる巷《ちまた》の此処彼処《ここかしこ》に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔《ほのほ》を放てり。
 一陣の風は砂を捲《ま》きて起りぬ。怪しの老女《ろうによ》はこの風に吹出《ふきいだ》されたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪《さかだ》ちて、披払《はたはた》と飄《ひるがへ》る裾袂《すそたもと》に靡《なびか》されつつ漂《ただよは》しげに行きつ留りつ、町の南側を辿《たど
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