》にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若《も》しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根《しようね》も腐れ、身持も頽《くづ》れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋《つな》ぐべきものにあらず。如此《かくのごと》き輩《やから》を出入《でいり》せしむる鴫沢の家は、終《つひ》に不慮の禍《わざはひ》を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中|遽《にはか》に懼《おそれ》を生じて、さては彼の恨深く言《ことば》を容《い》れざるを幸《さいはひ》に、今日《こんにち》は一先《ひとまづ》立還《たちかへ》りて、尚《な》ほ一層の探索と一番の熟考とを遂《と》げて後、来《きた》る可《べ》くは再び来らんも晩《おそ》からず、と失望の裏《うち》別に幾分の得るところあるを私《ひそか》に喜べり。
「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」
「はい、私《わたくし》は」と紫根塩瀬《しこんしほぜ》の手提の中《うち》より小形の名刺を取出だして、
「甚《はなは》だ失礼でございますが」
「はい、これは。赤樫満枝《あかがしみつえ》さまと有仰《おつしや》いますか」
この女の素性に於《お》ける彼の疑は益《ますます》暗くなりぬ。夫有《つまも》てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無《にげな》し、まして裏面《うら》に横文字を入れたるは、猶可慎《なほつつまし》からず。応対の雍《しとやか》にして人馴《ひとな》れたる、服装《みなり》などの当世風に貴族的なる、或《あるひ》は欧羅巴《ヨウロッパ》的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余《あまり》に色美《いろよ》きが、又さる際《きは》には相応《ふさはし》からずも覚えて、こは終《つひ》に一題の麗《うるはし》き謎《なぞ》を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇《ぶあしらひ》に慍《いきどほ》るをも忘れて、この謎《なぞ》の為に苦められつつ病院を辞し去れり。
客を送り出でて満枝の内に入来《いりきた》れば、ベッドの上に貫一の居丈高《ゐたけだか》に起直りて、痩尽《やせすが》れたる拳《こぶし》を握りつつ、咄々《とつとつ》、言はで忍びし無念に堪へずして、独《ひと》り疾視《しつし》の瞳《ひとみ》を凝《こら》すに会へり。
第 六
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