り。貫一は知らざる如く、彼方《あなた》を向きて答へず。仔細《しさい》こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍《よそ》に見つつも憫《あはれ》に可笑《をかし》かりき。
「貫一さんや、私《わし》だ。疾《とう》にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然《さつぱり》知れんので。一昨日《おとつひ》ふと聞出したから不取敢《とりあへず》かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我《おほけが》ださうではないか」
 猶《なほ》も答のあらざるを腹立《はらだたし》くは思へど、満枝の居るを幸《さいはひ》に、
「睡《ね》てをりますですかな」
「はい、如何《いかが》でございますか」
 彼はこの長者の窘《くるし》めるを傍《よそ》に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺《うかが》へば、涙の顔を褥《しとね》に擦付《すりつ》けて、急上《せきあ》げ急上げ肩息《かたいき》してゐたり。何事とも覚えず驚《おどろか》されしを、色にも見せず、怪まるるをも言《ことば》に出《いだ》さず、些《ちと》の心着さへあらぬやうに擬《もてな》して、
「お客様がいらつしやいましたよ」
「今も言ひました通り、一向|識《し》らん方なのですから、お還し申して下さい」
 彼は面《おもて》を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推《すい》して、また多くは問はず席に復《かへ》りて、
「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰《おつしや》るのでございます」
 長き髯《ひげ》を推揉《おしも》みつつ鴫沢は為方無《せんかたな》さに苦笑《にがわらひ》して、
「人違とは如何《いか》なことでも! 五年や七年会はんでも私《わし》は未《ま》だそれほど老耄《ろうもう》はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些《ちよつ》とでも会うて貰ひませう」
 挨拶《あいさつ》如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。
「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。
 然し、貫一さん、能《よ》う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来《これまで》の為方《しかた》、又今日のこの始末は、ちと妥当《おだやか》ならんではあるまい
前へ 次へ
全354ページ中181ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング