うすあかり》に曝《さら》さるる夜の街《ちまた》は殆《ほとん》ど氷らんとすなり。
人この裏《うち》に立ちて寥々冥々《りようりようめいめい》たる四望の間に、争《いかで》か那《な》の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重《きゆうちよう》の天、八際《はつさい》の地、始めて混沌《こんとん》の境《さかひ》を出《い》でたりといへども、万物|未《いま》だ尽《ことごと》く化生《かせい》せず、風は試《こころみ》に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫《ただみだり》に※[#「※」は「しんにょう+貌」、8−4]《ひろ》く横《よこた》はれるに過ぎざる哉《かな》。日の中《うち》は宛然《さながら》沸くが如く楽み、謳《うた》ひ、酔《ゑ》ひ、戯《たはむ》れ、歓《よろこ》び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚《はかな》くも夏果てし孑孑《ぼうふり》の形を歛《をさ》めて、今将《いまはた》何処《いづく》に如何《いか》にして在るかを疑はざらんとするも難《かた》からずや。多時《しばらく》静なりし後《のち》、遙《はるか》に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃|忽《たちま》ち一点の燈火《ともしび》は見え初《そ》めしが、揺々《ゆらゆら》と町の尽頭《はづれ》を横截《よこぎ》りて失《う》せぬ。再び寒き風は寂《さびし》き星月夜を擅《ほしいまま》に吹くのみなりけり。唯有《とあ》る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間《ひあはひ》の下水口より噴出《ふきい》づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温《ぬくもり》の四方に溢《あふ》るるとともに、垢臭《あかくさ》き悪気の盛《さかん》に迸《ほとばし》るに遭《あ》へる綱引の車あり。勢ひで角《かど》より曲り来にければ、避くべき遑無《いとまな》くてその中を駈抜《かけぬ》けたり。
「うむ、臭い」
車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。
「もう湯は抜けるのかな」
「へい、松の内は早仕舞でございます」
車夫のかく答へし後は語《ことば》絶えて、車は驀直《ましぐら》に走れり、紳士は二重外套《にじゆうがいとう》の袖《そで》を犇《ひし》と掻合《かきあは》せて、獺《かはうそ》の衿皮《えりかは》の内に耳より深く面《おもて》を埋《うづ》めたり。灰色の毛皮の敷物の端《はし》を車の後に垂れて、横縞《よこじま》の華麗《はなやか》なる浮
前へ
次へ
全354ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング