ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳《いくとせ》か念懸《ねんが》くれども未《いま》だ容易に許されざる娘の胸は、忽《たちま》ち或事を思ひ浮べて攻皷《せめつづみ》の如く轟《とどろ》けり。彼は惘然《ぼうぜん》として殆ど我を失へる間《ま》に、電光の如く隣より伸来《のびきた》れる猿臂《えんぴ》は鼻の前《さき》なる一枚の骨牌《かるた》を引攫《ひきさら》へば、
「あら、貴女《あなた》どうしたのよ」
お俊は苛立《いらだ》ちて彼の横膝《よこひざ》を続けさまに拊《はた》きぬ。
「可《よ》くつてよ、可くつてよ、以来《これから》もう可くつてよ」
彼は始めて空想の夢を覚《さま》して、及ばざる身《み》の分《ぶん》を諦《あきら》めたりけれども、一旦|金剛石《ダイアモンド》の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚《めざまし》かりける手腕《てなみ》の程も見る見る漸《やうや》く四途乱《しどろ》になりて、彼は敢無《あへな》くもこの時よりお俊の為に頼み難《がたな》き味方となれり。
かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、
「金剛石《ダイアモンド》!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石??」
「成程金剛石!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見給へ、金剛石」
「あら、まあ金剛石??」
「可感《すばらし》い金剛石」
「可恐《おそろし》い光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬《またた》く間《ひま》に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳《うた》へり。
彼は人々の更互《かたみがはり》におのれの方《かた》を眺《なが》むるを見て、その手に形好く葉巻《シガア》を持たせて、右手《めて》を袖口《そでぐち》に差入れ、少し懈《たゆ》げに床柱に靠《もた》れて、目鏡の下より下界を見遍《みわた》すらんやうに目配《めくばり》してゐたり。
かかる目印ある人の名は誰《たれ》しも問はであるべきにあらず、洩《も》れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継《とみやまただつぐ》とて、一代|分限《ぶげん》ながら下谷《したや》区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中《うち》にも富山|重平《じゆうへい》の名は見出《みいだ》さるべし。
宮の名の男の方《かた》に持囃《もてはや》さるる如く、富山と知れたる彼の名は直《ただち》に女の口々に誦《ずん》ぜられぬ。あは
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