ず何かに傾けられている。卑怯者と私は自分に云ってやった。然しもうそれに気付いた時は彼の世界が近くに迫っていた。
 彼は扉をあけてつと入って来る。そして私の方へは目もくれないで真直に四角い卓子の方へ歩いて行った。それからチョコレートをくれと女中に云った。
 私はその時呼吸がとまるほど驚いた。その晩私は初めからチョコレートを飲んでやろうと思っていたのだ。然し軽卒に振舞ってはいけないと思って、わざわざ彼が来るまで待っていたのだ。兎に角彼奴は私に対して潜越なんだ。私は苛《い》ら苛《い》らしてきた。それで女中を呼んで、チョコレートをくれと大きい声で怒鳴りつけてやった。その時私は紙巻煙草を吸っていた。落ちつかない心地で続けて二本目のに火をつけた。その時その煙がふうわりと彼の方へ流れて、細かい灰が彼の方へ飛んだ。それでふと彼の方に眼をやると、彼は闇の影のようにぽかんと其処に涙ぐんでいる。そして小さい穴が、真暗い穴があいて何処かへ続いている。その中へすーっと眼に見えないものが入ってゆく。その時悠然と彼は立ち上って、そして茫然としている私を残して音もなく出て行ってしまった。私の上に大きい憂欝《メランコリ
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