私は扉を押した。
 其処には早や彼が来て静に腰掛けているのを私は見た。
 私はそのままつかつかと進んで彼の傍に立った。彼がふり向いてじっと私を見上げた。ここだと私は思った。で全力を尽してぐっと沈着を装った。そして云った。
「君は煙草を吸わないんですね!」
 その時私の眼は恐ろしく彼を睥みつけていたんだ。それでも彼はゆっくりと答えた。
「煙草はきらいです。」
 何と云う妙な声だろう! 幅広い風が地面に沿って流るるようなんだ。妙にぽかんとして消え去ったその声の跡を追っていると、何だか柔いものが私の全身を捉えた。そして私をすーっと空中に持ち上げようとしている。持ち上げて此度は目が眩むような速度で私を深い所へ落そうとしている。
 その時彼がつと立ち上った。そして私をじっと見据えた。どうにも出来なかったのだ。私の全身は柔いものに縛られている。そして彼の凄い眼が私の心にぷすぷすと小さい針を無数にさし通している。
 その時私はぐっと足をふみしめてやった。きらりと私の頭の中に光ったものがある。私は拳固をかためて卓子の上を一つ強く叩いてやった。そしたら私を捉えているものがふっと弛んだ。畜生! と私は怒鳴
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