先にしてくれと女中にどなってやった。彼は黙って私が勘定をすますまで待っていた。私は馳けるようにして其処を飛び出した。

 ――一体彼奴は音もなくそっと動いているんだ。何時も何かの隙間をじっと狙《ねら》っている。隙間から風がすーっと吹き込むように、後ろの方からこっそりとやって来る。気が付いた時はもう遅いんだ。かくて彼は何時の間にカフェーの中に自分の影を濃く蓄積してしまったのだ。そして凡てを私から奪った上、私の胸の中に忍び込んで来ようとしている。彼奴がじっと私の魂を狙っているのを私はよく知っている。
 彼も私もじっと卓子についている。私達の間は僅かに六七歩にすぎない。その間に深い沈黙が湛えている。私の魂はこの沈黙のうちに、そっと形態の扉を開いて外面を覗こうとする。その時彼がそっと私の方へ手を伸して私の魂を捕えようとするのだ。
 私ははっとして心の扉を堅く閉した。然しどうすることも出来ないんだ。私のまわりには彼の影が深く立ち罩めている。私はその中に沈湎してもがき乍ら、只じっと堅く堅く息つまるように心の扉を閉すの外はなかった。
 その時突然他の客が入って来た。
 室の中一杯にもやもやと物の乱る
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