然し彼は殆んどその心臓の存在をさえ私に知らさなかった。
 私はなおこの五秒と八秒とについて深く信じていた。そして其処から彼の心のうちに忍び込んでやろうと思った。それを彼が察したのだ。そして私を裏切ったのだ。
 或る晩私が彼より先に其処を出ようとした時のことだ。私は勘定に女中を呼ぶために紅茶の匙で卓子をこつこつと叩いた。その時すぐに女中が返事をしなかったので、私はまたこつこつとやった。そしてまたこつこつとやった。その時彼がまたこつこつとやったのだ。それから私達は調子を揃えて卓子を叩いた。擽ったいような腹立たしいような感じが私のうちに満ちた。そして私は明瞭と彼の意志を自分のうちに見出した。それが抵抗の出来ないほど強いんだ。私は自分をがんと何かにぶっつけたくなった。それでも私はやはり彼と調子を合せて卓子をこつこつと叩く外はなかったのだ。すぐに女中が来た。彼女は先に彼の方へ行った。私は彼が澄まして勘定というのをきいた。
 その時私のうちにある狂暴な考えが突然に起った。私は彼を蹴飛してやりたくなって、すっくと立ち上った。然し私の足は其処に悚んでしまった。でも私は全力を尽して、急ぐんだから俺の方を
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