はじめて腰を下した。
 その時私は大変大事なことを忘れていた。それがどうしても思い出せない。でも私は長い間一心にそれを考えていた。
 その時彼が突然立ち上って出て行った。私はどうすることも出来なかったのだ。急いで勘定をすまして私も出て行った。
 冷たい空気が頬に流れた。私はひどく疲労しているのに気がついた。そして頭の中にぼんやりした空虚が出来ていた。歯痒いような変な気持ちが其処に一杯つまっている。


 ――私は落ち付かなければいけないんだ。私は彼よりも力強いことを信じている。然し非常な圧迫を私は彼から受けている。私はどうかすると彼から人形のように操られているような気もする。ほんとに私は気味悪いほど落ち付いてやらねばいけないんだ。
 私はこう思って火曜の晩早くからカフェーに行った。何も食べないで先ず女中から夕刊をかりて只ぼんやりその上に眼を落していた。
 全く静かだ。そして平和なんだ。私のまわりに澄み切った世界がある。そして種々な物象の眼がじっと私の方へ向いて媚を呈している。私は傲慢で、力強く、そして凡てのものを愛しているんだ。然し何だか妙な霧がふーっとこめている。
 私の心の耳はたえず何かに傾けられている。卑怯者と私は自分に云ってやった。然しもうそれに気付いた時は彼の世界が近くに迫っていた。
 彼は扉をあけてつと入って来る。そして私の方へは目もくれないで真直に四角い卓子の方へ歩いて行った。それからチョコレートをくれと女中に云った。
 私はその時呼吸がとまるほど驚いた。その晩私は初めからチョコレートを飲んでやろうと思っていたのだ。然し軽卒に振舞ってはいけないと思って、わざわざ彼が来るまで待っていたのだ。兎に角彼奴は私に対して潜越なんだ。私は苛《い》ら苛《い》らしてきた。それで女中を呼んで、チョコレートをくれと大きい声で怒鳴りつけてやった。その時私は紙巻煙草を吸っていた。落ちつかない心地で続けて二本目のに火をつけた。その時その煙がふうわりと彼の方へ流れて、細かい灰が彼の方へ飛んだ。それでふと彼の方に眼をやると、彼は闇の影のようにぽかんと其処に涙ぐんでいる。そして小さい穴が、真暗い穴があいて何処かへ続いている。その中へすーっと眼に見えないものが入ってゆく。その時悠然と彼は立ち上って、そして茫然としている私を残して音もなく出て行ってしまった。私の上に大きい憂欝《メランコリー》が次第に濃くかぶさって来た。私はその時非常に荒廃した孤独の感慨に打たれた。
 何処からかひそひそと私に囁く声がした。その声が室の中一杯に大きく拡がってゆこうとしている。私はたまらなくなって其処を飛び出した。

 ――妙な日が続いた。私の頭から何処かへ飛び去ったものがある。そしてその後へ別なものが入って来た。それは私の知らないものなんだ。それが私を強い力で囚えてしまった。私は屹度火曜と金曜との晩にカフェーに行った。彼も屹度来た。そして私達は何時も同じものを食い、そして飲んだ。
 其処には紅茶と珈琲とココアとチョコレート、それから葡萄酒とウィスキーとベルモットとチェリー酒、それに菓子と菓物とがあるばかりだった。変化がこれだけに止ることは実にたまらないことだった。私は制限のない豊富な材料の種々を思い浮べながら、どうすることも出来なかった。
 何故? という問題は最早其処には残されていなかった。私達はそれほど自己の魂に忠実で、そして私達の魂はそれほど強く結び付いていたのだ。私達が同じものを択ぶことは只必然にそうなるんだ。そして私と彼と只じっと必然のうちに相対している。どうにも私には出来ないんだ。
 彼は私の世界を次第に食い減らしてゆく。凡てのものが私の心のうちにじっと魂の眼を見張っていた。然しそれらの眼の上に薄いベールが被ってきた。それが次第に厚くなってゆく。それに彼の引いている薄暗い影が宿ってくる。私は次第に孤独になるのを感ずる。凡てが私に背いて彼の方へ靡いてゆくのだ。私はそれをどうすることも出来ないんだ。私はどうにもならない苦悶のうちから、只彼をじっと見てやった。自分の生きた皮を一枚一枚剥いでゆく強暴な動物を見るような眼で、私は只じっと喰い入るように彼を見つめてやった。

 ――彼は其処から出てゆく時に、先ず扉を内方へ引く。そして身体を前の方へまげて屹度外面を覗くのだった。私はその姿を見る時何時も堪えられないような恐怖を感じた。
 然しある風の強い晩だった。私はそっと懐中時計を取り出した。その晩は風の音にまぎれて時計の声も彼には聞えないだろうと思ったからだ。彼はその時七秒間外をじっと窺っていた。そして真直に立ち直って大股に出て行った。
 それから度々私はその時間を測定してみた。五秒から八秒にきまっていた。私はその時間と彼の心臓の鼓動とから何かを発見しようと努力した。
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