然し彼は殆んどその心臓の存在をさえ私に知らさなかった。
私はなおこの五秒と八秒とについて深く信じていた。そして其処から彼の心のうちに忍び込んでやろうと思った。それを彼が察したのだ。そして私を裏切ったのだ。
或る晩私が彼より先に其処を出ようとした時のことだ。私は勘定に女中を呼ぶために紅茶の匙で卓子をこつこつと叩いた。その時すぐに女中が返事をしなかったので、私はまたこつこつとやった。そしてまたこつこつとやった。その時彼がまたこつこつとやったのだ。それから私達は調子を揃えて卓子を叩いた。擽ったいような腹立たしいような感じが私のうちに満ちた。そして私は明瞭と彼の意志を自分のうちに見出した。それが抵抗の出来ないほど強いんだ。私は自分をがんと何かにぶっつけたくなった。それでも私はやはり彼と調子を合せて卓子をこつこつと叩く外はなかったのだ。すぐに女中が来た。彼女は先に彼の方へ行った。私は彼が澄まして勘定というのをきいた。
その時私のうちにある狂暴な考えが突然に起った。私は彼を蹴飛してやりたくなって、すっくと立ち上った。然し私の足は其処に悚んでしまった。でも私は全力を尽して、急ぐんだから俺の方を先にしてくれと女中にどなってやった。彼は黙って私が勘定をすますまで待っていた。私は馳けるようにして其処を飛び出した。
――一体彼奴は音もなくそっと動いているんだ。何時も何かの隙間をじっと狙《ねら》っている。隙間から風がすーっと吹き込むように、後ろの方からこっそりとやって来る。気が付いた時はもう遅いんだ。かくて彼は何時の間にカフェーの中に自分の影を濃く蓄積してしまったのだ。そして凡てを私から奪った上、私の胸の中に忍び込んで来ようとしている。彼奴がじっと私の魂を狙っているのを私はよく知っている。
彼も私もじっと卓子についている。私達の間は僅かに六七歩にすぎない。その間に深い沈黙が湛えている。私の魂はこの沈黙のうちに、そっと形態の扉を開いて外面を覗こうとする。その時彼がそっと私の方へ手を伸して私の魂を捕えようとするのだ。
私ははっとして心の扉を堅く閉した。然しどうすることも出来ないんだ。私のまわりには彼の影が深く立ち罩めている。私はその中に沈湎してもがき乍ら、只じっと堅く堅く息つまるように心の扉を閉すの外はなかった。
その時突然他の客が入って来た。
室の中一杯にもやもやと物の乱るるけはいがした。そして私は夢から醒めたようなぽかんとした気持ちになった。彼の世界がはっと身をかわして、物影に引き込んだのである。
知らない新らしい客は二人の洋服の男だった。彼等は呑気に中央の大きい卓子にかけて珈琲を飲んでいる。彼等は何にも知らないんだ。そして何にも見えないんだ。
私はふっと解放された自分を見出したけれど、室の隅々から、私をじっと窺っている無数の眼をはっきりと知っていた。彼奴だ、彼奴がその中に居るんだ。二人きりの沈黙の時が来たら、今にも其処から飛び出して私を捕えようとしているんだ。四方からじっと隙を窺っているんだ。
私はその時は堅く堅く心を閉す必要はなかったのだ。然しそれだけ不安が大きかったのだ。私はぶるぶる震え乍ら漸々そのカフェーから逃げ出すことが出来た。
――悶え乍らも私はやはり彼の方へぐんぐん引きつけられてゆく外はなかった。力をこめてぶつかって行こうとすれば、ふうわりと大きいものの中に彼は私を包んでしまうのだ。
私達の何れかが何かを飲んでいる時、それを見て後から来た方が同じものを注文するのは別に不思議はないんだ。然し私は只頭の中で考えたきりじっとしていることがある。その時は屹度彼が私より先にそれを女中に云いつけるのだ。私が考えて彼がそれを先に実行するということがあっていいものだろうか? 私は泣き出しそうな顔をし乍ら、やはり私が考え彼が実行したことを、その通りにくり返さねばならないんだ。
私が考えること、行うこと、それをみんな彼奴が盗んでしまうんだ。彼は私を貪りつくし、裸になして、そして其処に震えつつ転っている私の魂をまで※[#「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1−90−58]《しゃぶ》ろうとしている。
私はそれでもまだ自分に力があることを信じている。私が今まっすぐに彼に向って歩き出したら、私をとり巻く彼の世界をずっと通りぬけることが出来るという確信がある。然し私は怖いんだ。身の毛が立つほど怖いんだ。
彼の世界にはその奥に薄い膜がある。私にはそれより先は見えないんだ。それは薄い膜だから一寸爪先で蹴ればすぐ破けるに相違ない。然し今その先のものが私を脅かしている。私はよく夢の中で高い所から底のない深みへ、息づまるような速力で一直線に落つる恐怖を感ずることがある。私がその薄い膜から先を覗こうとする時は、それと同じい恐怖が私を襲うのだ
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