。
然しこのままで居ては只彼からこの生命を吸い取らるるばかりなんだ。私はどうにかしなければいけないんだ。
――寒い風がすさまじく吹いている。その音が私の頭に当ってかんかんという音を立てている。カフェーの中の円い卓子に倚っていても私の身体は風の音にふらふらと揺られそうだ。
その時入って来た彼を見て、私は思わず歯をくいしばってしまった。
彼は決して頸巻をしていたことがなかった。それにその晩は私と同じなラクダの布で、而も私と同じように顔の下半分を包んでいたのだ。この頸巻が与える頬の感覚は、私の深い生命の世界の知覚と非常に密接な関係を有していた、私には貴い残りものなんだ。それを今彼がほっそりとした頬に盗んで楽しんでいるんだ。私は口惜しかった。それでじっと睥みつけてやった。すると自分の頬に滑らかな彼の頬の肉の触れるのを私は感じた。私は驚いて飛び上った。
その瞬間私の頭の中には最も周到なる熟慮が働いて復讐の計画がたちどころに成った。それで私はぐっと落ち付いてやった。
彼の所へ紅茶を運んだ女中を私は呼んだ。そして一寸用があって出かけるけれどすぐに帰って来るから紅茶を用意しておいてくれと云った。
外に出ると私は寒風の中を突進して、近くの帽子屋に入った。其処で彼奴のと同じな中折帽を一つ買って、私はまた駈け戻った。
カフェーの前に来た時私の呼吸は喘いでいた。で暫く其処に立ち止って息を静めた。それから鳥打を袂の中にねじこみ、中折を眼深にかぶって、私は悠然として中へ入った。
室に入ると私の心の緊張が何かぎざぎざしたものにそっと撫でられた。そして張り切った私の力が何処かへぬけ出してしまった。私はぼんやり首垂れて自分の席へ着いた。
その時彼が私を嘲笑ったのだ。口元に皺をよせて白い歯を少しその唇の間から見せ乍ら、賤しい蔑視の眼を私の上に据えたのだ。私は非常な屈辱と忌々しさを感じた。然し私は力なく首垂れている自分を彼の前に贄として差出すの外はなかったのだ。
何という様《ざま》だろう! 私はとうとう彼の惑わしの糸に搦められてしまったのだ。もうどうにも出来ないんだ。
彼のうちには深い穴があるのを私は初めから知っていた。彼がじっと眼を据えたものから何かが流れてその穴の中へ入って行くのを私は見た。私は今はっきりと知っている。それは物の魂なんだ。この仕方で彼は私の世界に在る凡てのものの魂を吸い取ったのだ。私の頬の感覚までも吸い取ったのだ。そして今私の魂をも吸い取って※[#「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1−90−58]ろうとしている。この貪って飽くことを知らない穴が、その底に無限の空間が続いているその闇の穴が、今じっと私を吸いつけようとしている。
私にはもう魂のない平面的な、現実の堅い皮ばかりしか残されていない。そして裸で震えている一人ぼっちな自分の魂しか残されていない。然し私の魂があの穴なしの闇の穴に吸い取られる前に、私は屹度彼に対して、最期の奮闘をしないではおかない。私にはまだこの屹度という強い意志があるんだ。
――その次の火曜に私は一つの武器を持ってカフェーに行った。それは彼が煙草を吸わないことなんだ。その時私は大海の真中に身を投ずるような心地がした。
私は葉巻を二本途中で買った。一本は袂の中にしまった。そしてカフェーの前に立った時一本に火をつけた。
私はじっと下腹に力を入れそして拳《こぶし》を握った。それから右手の指に強く※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ葉巻をすーっと吸った。その煙を吹きつけ乍ら私は扉を押した。
其処には早や彼が来て静に腰掛けているのを私は見た。
私はそのままつかつかと進んで彼の傍に立った。彼がふり向いてじっと私を見上げた。ここだと私は思った。で全力を尽してぐっと沈着を装った。そして云った。
「君は煙草を吸わないんですね!」
その時私の眼は恐ろしく彼を睥みつけていたんだ。それでも彼はゆっくりと答えた。
「煙草はきらいです。」
何と云う妙な声だろう! 幅広い風が地面に沿って流るるようなんだ。妙にぽかんとして消え去ったその声の跡を追っていると、何だか柔いものが私の全身を捉えた。そして私をすーっと空中に持ち上げようとしている。持ち上げて此度は目が眩むような速度で私を深い所へ落そうとしている。
その時彼がつと立ち上った。そして私をじっと見据えた。どうにも出来なかったのだ。私の全身は柔いものに縛られている。そして彼の凄い眼が私の心にぷすぷすと小さい針を無数にさし通している。
その時私はぐっと足をふみしめてやった。きらりと私の頭の中に光ったものがある。私は拳固をかためて卓子の上を一つ強く叩いてやった。そしたら私を捉えているものがふっと弛んだ。畜生! と私は怒鳴
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