ってやった。そしてそのまま駈け出した。
 私の中で脈搏が急に止ってしまった。そして頭が重い石のように固ってしまった。
 私は家に帰って自分の室に在る小さい懐剣を懐に隠した。そしてすぐに飛び出した。その時茶の間に立っている母の姿が私の眼にちらと映った。
 私は自分で知らないまに直にカフェーの中に突進した。そして円い卓子の自分の席に倒れるように身を投げた。
 凡てのものががらんとしている。そして堅い石のような私の頭が次第にゆるんでくる。後頭部に眩暈するような重い痛みがある。骨格のふしぶしが弛んで、ぐたりとくずれそうな気がする。
 その時女中が向うの隅に立ったまま私を見ていた。私はおい! と叫んだ。そして熱くして珈琲を一つくれと云った。
 然し何だか自分をとり落したような気がしていた。そしておかしな空虚が胸の中に蟠っていた。その時私は何気なく左手を懐に入れたら、堅いものが触った。
 私の全身にぎくっという音がした。はっとして私に強い意識が返って来た。一瞬間彼の眼付が前に浮んだ。そして消えた。私は強く懐剣を懐のうちで握りしめた。凡てのことがはっきりと私に分ったのだ。
 何の音も声もしない。唯じっとした静けさだ。そして私の意識が凡てのものの上にしみ渡ってゆく。其処には光りも影もなくて唯深い明るみがあるんだ。その明るみが力一杯に緊張している。何物をも許さないんだ。大きく眼を見張ったままじりじりと凡てが迫ってゆく。私の意力がその中にこもっているんだ。私は両手で緊《しか》と懐剣を握りしめ、息を凝らしてぶるぶると全身の筋肉を震わした。

 ――私は彼奴を微塵にうち砕いてやろう。
 何という力強い緊張だろう! このままじっとしていることは許されないんだ。何かが破れそうだ、裂けそうだ。真直に、そうだ真直に私は彼奴に向って突進するばかりなんだ。私の前に彼奴が立ち塞っている。私の魂が息をつけないで悶えている。唯この力でぐっと彼奴にぶつかってやるばかりなんだ。

 ――私は金曜を待った。唯じっと待っていた。
 その頃昼間、私の生命は益々稀薄になってしまった。夢の中から無理に引きちぎって来られたようなぽかんとした空虚と気味の悪い悪寒とが私のうちに満ちていた。そして私はただ炬燵の中に身体を横えて居た。私の生命は凡て夜の方へ流れ込んでしまったのだ。
 夜私は強く両手を握りしめていた。そしてじっと眼を一つ所に据えた。然し私は何にも見も聞きもしないんだ。弦のようにはり切った私の心がそうすることを強ゆるんだ。時々何処かの筋肉がびくびくと引きつる。
 私は唯そうして居なければいけないんだ。それで母が来ても女中が来ても、私はすぐに追いやって自分一人室の中に居た。
 凡てが必然なんだ。何にも考えることなんかないんだ。唯必然にそうしなければいけないという事実ばかりなんだ。私はその事実をじっと見つめているんだ。

 ――金曜の晩私は深い水底に居るような心地をして家を出た。懐剣を緊と内懐にしまった。家を出てふと振り返ると、閉めた筈の格子が二三寸許りあいていた。私はそれをがたりと力一杯にしめてやった。
 私は一直線にカフェーに向った。私は首を少し前の方に伸して、光りと影とのうちに無形のものをすかし見ながら歩いた。形あるものは何物も私の眼に入らなかった。そして少しの足音もしないように而も力強く歩いた。
 カフェーの前に立った時、私は全力をこめてじっと扉を睥めてやった。そしたら独りですーっと扉が開いた。私はつと身を入れて、それから自分の席について彼を待った。
 私のうちの凡てのものが硬くなっている。そして一杯の力を以て前の方へ向っている。その時私の後ろにじっと私を見つめている大きい影を私は感じた。然しもうふり返れないんだ。どうにも出来ないんだ。私は力強く自分の額を拳固で叩いてやった。巨大な岩を叩いたような音がした。
 私はウィスキーを飲んでみた。女中が其処に立って私をじろじろ見ているので、うるさいと怒鳴ってやったら引込んでいった。
 私はどれだけの時が過ぎたか知らない。その時ある大きいものが一瞬間その歩みを止めたのだ。凡てが深く息を吸い込んでいる。さっと深い沈黙が流れる。動いてはいけない。指一本動かしてはいけないんだ。
 私は明瞭と知ったのだ。それで扉の方をまたたきもしないで見つめた。彼が音もなくすっと入って来た。それから一寸立ち止っていきなり私に眼を止めた。
 大きい力強いものが私を捉えた。彼がじっと私を見つめたまま真直に私の方へ進んでくる。そしてその眼がぐんぐん彼の方へ私を引きつけようとしている。
 私はすっと立ち上った。その時私の頭の中でさらさらという音がした。私は彼の胸の所へじっと眼を据えた。何かがさっと流れた。私は右手に懐剣を握った。刃が真黒なんだ。それを彼の胸の中に力を込
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