私は凡てに腹立っていたのだ。それで急いで勘定をして立ち上った。その時彼がふり返って私を見た。その瞬間彼の眼が異様に輝いて私の胸を射た。
――カフェーの中の空気はそれきりまた静まって、私の世界のうちに落ち付いた。私は平和に菓子をつまみ紅茶をのんだ。
或る晩、彼がつと入って来た。その後ろに扉をしめて一寸彼は立ち止った。彼はぐるりと室を見廻して、それから私の方へその気味の悪い眼を据えた。その時私は明瞭《はっきり》と知った。彼は決して私の顔は見なかった。只私の前に在る紅茶と菓子とをじっと見たのだ。それから彼は例の四角い卓子について、紅茶と菓子とを女中に云いつけた。
私はそれが気になって仕様がなかった。でもじっと堪《こら》えてやった。然し次第に不気味な恐怖が私を捕えてゆく。私は始終彼から何かを盗まれてることに気が付いた。それで思い切ってじっと彼の横顔を見つめてやった。
その時彼はじっと室の隅を見つめて口を堅く閉じていた。そして口のまわりの頬の筋肉を引きしめたり弛めたりしている。丁度蛙の顎《あご》のようだ。で私はじっとその筋肉の運動を見ていたら、妙な擽ったいような戦慄が伝った。そして私の頬の筋肉がぶるぶると震えた。我知らず掌でその頬をなでてみたら滑らかに冷りとした。私は覚えず其処に飛び上った。
その時彼の処から私の処へすーっと帰って来たものがある。彼奴が何かを盗んで居たのだ。
畜生! と私は口の中で呟いてやった。
油断してはいけない! こういう思いがその時から私の心のうちに萠した。
――私の心に映り、私の意識に入って来るものは、皆深い眼に見えない世界の象徴なんだ。やがて私の心はその世界を抱擁し、温い息吹で暖めてやるのだ。そして其処に深い生命が創造される。私の心はかく現実を孕んでそれを生命の世界へ産み落すのである。私はその世界の母なんだ。私は其処にある凡てを力強く愛する。何物もこの甦死を待たなければ何等の価値をも有しないのだ。誰も私に対して彼等自身の存在を持たないのだ。みな私が彼等に魂を与えてやるのだ。
只かの男ばかりはどうも私の世界に入って来ない。私が自分の世界の中心に瞑想している時、彼が突然やって来る。すると私の世界がざわざわと騒ぐ。彼は丁度黒い影のようにやって来るのだ。私の知らない存在を彼は持っている。それを彼の眼が語っている。
彼はその凸出した額の下に深く凹んだ眼を持っている。その眼には妙に青い冷たい光りがある。彼はその眼でじっと一つ一つ物を見据える。その時彼の眼と見られた物との間には、一種の無形の強い連鎖が生ずる。そして何物かが彼の方へ流れ込む。私の力ではそれを止めることは出来ない。そして今にも彼はじっと私の方へその眼を向けようとしている。もし彼があの眼で私の魂をじっと見つめるとしたら……。私は決して油断してはいけないんだ。
それから私は一週間毎日カフェーに通って、彼が火曜と金曜とにしか来ないことを発見した。それは彼の正体をつきとめるのに非常の便利を与えることだと私は思った。
一体私は火曜と金曜とが一番嫌いな日なんだ。私の美しい従妹も火曜に病にかかって、二週間後の金曜の夕方死んでしまった。火曜と金曜と彼奴とが私の心の中にくるくると廻転して妙な謎を拵える。それが今私をそそのかしているんだ。然し私はその謎にうち勝ってみせなければいけないんだ。私は彼奴をもっとよく見なければならないんだ。そして力を養うために、火曜と金曜との外はそのカフェーに寄ってはいけない。私は彼に戦を宣するのだ。何物かが後ろから私をぐんぐん押している。
――金曜の夕方私は家を早く出た。そして長い間歩き廻った後そのカフェーの前に立ち止った。その時すーっと私の心から逃げ出したものがある。はっと思って私はその前を通りすぎてしまった。
その晩星が美しく空に一杯輝いていた。その星を見ていたら私の心が静まった。それで私は又カフェーの前に立った。
私は扉を押した。中から何かが強くそれを押えて居る。それで力一杯に押してやった。すると音もなく開いた。
私はつと身を入れた。凡てのものが一時にぱっと飛び出して来た。瓦斯灯と卓子と蘇鉄と煖炉の真黒い煙筒とそれから壁に懸っている風景画とが。そして次の瞬間にそれらは一斉に息を潜めて私の心の中に静まり返った。私は自分の心の澄徹した緊張に力を得た。それでじろりと室の中を見廻してやった。
果して彼が居た。私の方に背中を向けて例の窓に近い卓子に倚っている。そしてただじっとしている。
私はその時力強く歩いて奥の円い卓子の処へ行った。その時わざと彼の方を向いてその卓子の上を見てやった。其処に菓子と珈琲のタッセとがあった。私は直覚的に珈琲と云うことを知ったのだ。そして女中に菓子と珈琲とをくれと云った。私はそれで安堵して
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