のの魂を吸い取ったのだ。私の頬の感覚までも吸い取ったのだ。そして今私の魂をも吸い取って※[#「祗」の「示」に代えて「舌」、第3水準1−90−58]ろうとしている。この貪って飽くことを知らない穴が、その底に無限の空間が続いているその闇の穴が、今じっと私を吸いつけようとしている。
私にはもう魂のない平面的な、現実の堅い皮ばかりしか残されていない。そして裸で震えている一人ぼっちな自分の魂しか残されていない。然し私の魂があの穴なしの闇の穴に吸い取られる前に、私は屹度彼に対して、最期の奮闘をしないではおかない。私にはまだこの屹度という強い意志があるんだ。
――その次の火曜に私は一つの武器を持ってカフェーに行った。それは彼が煙草を吸わないことなんだ。その時私は大海の真中に身を投ずるような心地がした。
私は葉巻を二本途中で買った。一本は袂の中にしまった。そしてカフェーの前に立った時一本に火をつけた。
私はじっと下腹に力を入れそして拳《こぶし》を握った。それから右手の指に強く※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだ葉巻をすーっと吸った。その煙を吹きつけ乍ら私は扉を押した。
其処には早や彼が来て静に腰掛けているのを私は見た。
私はそのままつかつかと進んで彼の傍に立った。彼がふり向いてじっと私を見上げた。ここだと私は思った。で全力を尽してぐっと沈着を装った。そして云った。
「君は煙草を吸わないんですね!」
その時私の眼は恐ろしく彼を睥みつけていたんだ。それでも彼はゆっくりと答えた。
「煙草はきらいです。」
何と云う妙な声だろう! 幅広い風が地面に沿って流るるようなんだ。妙にぽかんとして消え去ったその声の跡を追っていると、何だか柔いものが私の全身を捉えた。そして私をすーっと空中に持ち上げようとしている。持ち上げて此度は目が眩むような速度で私を深い所へ落そうとしている。
その時彼がつと立ち上った。そして私をじっと見据えた。どうにも出来なかったのだ。私の全身は柔いものに縛られている。そして彼の凄い眼が私の心にぷすぷすと小さい針を無数にさし通している。
その時私はぐっと足をふみしめてやった。きらりと私の頭の中に光ったものがある。私は拳固をかためて卓子の上を一つ強く叩いてやった。そしたら私を捉えているものがふっと弛んだ。畜生! と私は怒鳴
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