は感ぜず、渓流に沿って流れる冷気が身内に伝わってくる。
 孤独、寂寥、そういう思いの中に私は沈む。寂寥が渦を巻いて、その中心に、寂寥の眼とも言えるものがある。恰も颱風の中心みたいに、その眼も真空だ。そこを見つめていると、ふっと、も一つの眼が浮んでくる。秋子の眼だ。それが、私ははっきり言える。白痴の眼だ。私にとり憑いてる眼だ。白痴なだけに、私はそれから遁れようはない。だが、それもすぐに消えて、私はぞくぞく体が震える。寂寥だけが残る。
 私は立ち上り、足を早めて宿に帰った。
「どこに行っていらしたの。」
 秋子はその眼をひたと私に据える。いつまでも離さない。
 お膳が出ていた。酒も出ていた。酒をぐいぐい三四杯のんで、私は自分でも突然の思いで言った。
「浅間に登ってみようか。」
 秋子はなにか腑に落ちないらしく、黙っている。
「登ろうよ。」
「大丈夫でしょうか。」
「なにが?」
「あなた、お登りなすったことがありますの。」
「あるよ。」
「ほんとですか。」
「ほんとだとも。噴火口がどうなってるか、はっきり説明出来るよ。」
「そんなら、登りましょう。」
 一度そうきめると、彼女はすぐにも登りたがった。

 山の上方は、火山岩に火山灰だ。靴では厄介なのである。秋子は宿のお上さんに頼んで、古足袋を二つ、私のと彼女のとを手に入れてき、紐つきの草履を、履き替えの分まで用意した。
 登山は夜間にするのが定法とされている。噴火口の底のぐらぐら沸き立ってる赤熱の熔岩のさまが、昼間はよく分らず、夜明け前の闇中ではよく見えるのである。その上、日の出の美観も楽しめるのである。
 毎日のように登山客があった。峯の茶屋まで自動車で行く人があったので、私達もそれに便乗させて貰った。それから先は、他の人々をやり過して、二人でゆっくり登った。私はズボンの裾を折り上げて、靴下の上に古足袋をはき、秋子はスカートの裾を気にしながら、ストッキングの上に古足袋をはき、どちらも草履を紐でゆわえている。滑稽な身なりだ。
 登山路は急だが、ゆっくり歩けば難儀はない。林間を過ぎ、灌木地帯を過ぎると、所々に草むらがあるだけの不毛の地だ。はっきりした路はないが、ただ一つの峯で、真直に登ってゆけばよい。時々立ち止って休む。地鳴りのような響きが遠くかすかに聞えてくると、意外に早く、頂上に出る。
 仄かに夜が明けかかっていた。中天は既に明るいが、地上にはまだ薄闇が漂っていて、火口壁のあちこちに、粗らな人影が影絵のように見える。火口の縁に辿りつくと、硫黄の匂いと大きな轟きとに包まれる。
 深く大きくえぐれた端正な噴火口である。底の一部に、ぐらぐら沸き立ってる赤熱があって、そこから噴煙が立ち昇り、渦巻く気流に従って、噴煙は火口一杯に立ち籠め、或はすーっと一方の火口壁から流れ出す。断崖の肌が、灰色に赤や青の点彩をつけて、現われたり隠れたりする。
「まあ、きれい。」
 秋子は嘆声を発して、火口を覗きこんでいる。
 私はぎくりとして身を退いた。ふしぎなことに、噴火口を見た時から、彼女の存在を忘れていた。それが突然、彼女の嘆声によって、夢から呼び覚された工合になった。彼女がすぐそこに居たのだ。淡緑色の簡素なスーツをつけ、髪は宿での和服の時とちがい、頸すじに梳かし流し、横顔が蝋のように白い。足元には、数十メートルの断崖と、赤熱の熔炉。危ない。彼女のためにではなく、自分自身に私は感じた。夢の中で見るのと、同じ危険だ。底知れぬ断崖の上に立ち、一歩誤れば、その奈落に墜落するばかりで、もう既に足場はなく、墜落の手前の一瞬間、恐怖がぞっと全身に流れる、あの危険だ。そしてその危険が、私から彼女へ伝わる。彼女は振り向いた。表情もなにも私の眼にはいらない。私は飛びついた。彼女を突き落すか、彼女と一緒に転げこむか。私は飛びついて、然し、後方へ引き倒した。
 彼女は砂上にのび、私はそばに屈みこんでその腕を捉えていた。
「危ない。」
 彼女は半身を起して、私を見守った。
「危ないじゃないか。」
 私は怒鳴りつけた。彼女は私の顔を見つめた。私の激しい憤怒に、彼女は圧倒されたようで、口を利けず、じっと見つめてるだけだ。その眼が、違っていた。ぴたりと張りつくだけで何にも見えない眼眸ではなく、生々と光って、何かを探りあてようとする視力だ。私は彼女の肩を抱き、そして囁いた。
「心配しないでもいい。」
 彼女は頷いたが、何を頷いたのか私にも分らず、ただ白々しい気持ちになった。私は立ち上り、彼女も立ち上り、そして火口を離れて歩きだした。
 夜は明けてきた。火口の中にも明るみがさして、底の赤熱の光りは淡くなり、ただいぶってるだけである。中天はもう青く冴え、東の空の薄靄の中に、白い太陽が浮き出している。
 岩かげの地面に腰を下して、私達は弁当を開いた。折詰には海苔巻がはいっていた。海苔巻の中は、干瓢と沢庵と玉子焼である。それをつまみながら、私はサイダー瓶の酒を飲み、彼女は水筒の茶を飲んだ。
「さっき、なにをお怒りなすったの。」
「怒りやしないよ。」
「そう。」
「怒りやしない。」
 彼女はにこりと笑った。
 至極、太平なのである。だが、一瞬、不安がかすめた。危なかった。私は彼女を火口の中に突き落すか、一緒に飛びこむか、どちらかを遂行したかも知れない。遂行、そうだ、前からその計画が胸に萌していたようでもある。浅間山麓に行こうと誘った時から、或は、登山しようと言い出した時から、無意識のうちにその思いがなかったであろうか。有ったとも無かったとも言えない。だがあの時は全く、危険な瞬間だった。あの決定的な瞬間に、私が彼女を引き戻したのは、なぜか。危険だったからと、循環するより外はない。その危険を避けたのは、私の弱さであろうか、愛情であろうか、本能であろうか。
 然し、そのような思いも、既に回顧にすぎない。不安はすぐに去って、太平な気持ちになる。山の上で海苔巻などを頬張ってるのは、よいことである。
「ずいぶんたくさんあるね。」
「またあとで食べましょうか。」
「いや、すっかり平らげてしまおう。」
 ゆっくり食べ、ゆっくり飲み、そして煙草を吸った。
「ああ腹が一杯だ。」
 立ち上って、また噴火口を覗きに行った。太陽もだいぶ昇り、白昼の火口は、ただ巨大な鍋の中を見るようなものだった。私はからのサイダー瓶を、力いっぱいに投げこんだ。広大な火口の中、それはいくらも飛ばず、ひらりと白く光っただけで、すぐ近くに落ち、火口壁に隠れて、音もなく行方も分らず消え失せてしまった。
「危ない。」
 突然、思いがけなく、その感じに私は虚を衝かれた。くるりと向きを変えて、火口から歩み去り、また岩かげに腰を下した。淋しくて惨めだった。何もかも頼りなかった。後からついて来た秋子を招き寄せて、私はその膝に顔を伏せた。何もかも頼りないのだ。憑いてくれ、しっかりと憑いてくれ、そうでないと、俺は淋しいんだ。しっかり憑いていてくれ。そんなことを心の中で言いながら、私はますます惨めになった。
 憑くという意味が、全然別なものになってることを、私は知っている。だが、それでよろしい。秋子を火口の中に突き落すようなことは、私にはもう出来ない。憑かれるのを嬉しがってるのだ。顔を挙げて彼女を見ると、彼女も私の眼にひたとその眼眸を押しつけてくる。何も見ていない白痴の眼だ。私は溜息をついた。先刻の一瞬、生々と蘇った彼女の眼のことを、私は思い出した。
 冒険をしてやろう。
「追分口の方へ降りてみようか。」と私は言った。
「道がありますの。」
「ある筈だ。無くたって構やしない。」
 起伏してる丘陵を越えて、遙かにアルプスの連峯が立ち並んでいる。地平は遠い。すぐ眼の下が追分駅だ。その辺一帯に落葉松の林が拡がっている。その林の方を目指して、いい加減に路を選び、私達は山を降りて行った。酒と彼女とに別れない限り、それぐらいの冒険が私に残されてるに過ぎなかった。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「改造文芸」
   1949(昭和24)年5月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年9月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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