に迷ったのではなく、空間に迷ったという感じだ。それでもなお歩いていると、もしもし、と呼び止められた。巡査が立っていて、どこに行くのかと尋ねられた。気がついてみると、先程たしかに通りすぎた交番の前だ。あなたはここを三度も通った、いったいどこへ行くのか。巡査は[#「巡査は」は底本では「巡者は」]不審そうに訊問する。黒田は頭がはっきりしてきて、自分ながら呆れた。どうやら、ただ大きく迂回していて、交番の前を三度も通って気付かなかったものらしい。狐にばかされる第一歩だったかも知れない、と黒田は告白した。
東京都内でもそういうことがある。田舎にはもっと不可思議なことが多々ある。狐つきは固より、物の怪の崇りのこと、死霊や生霊のことなど、不可思議さには奥行きが知れない。それがつまり実験談の語るところであった。然しその不可思議さにも限界があって、憑く方のもの、崇る方のものは、実際には存在せず、憑かれる方のもの、崇られる方のもの、即ち人間の精神だけが、実際には存在するのであって、それはもはや精神病理の問題に過ぎないのである。それだけのことを一度承認しておいて、そして心霊研究の大家は、霊界の存在を主張した。
「霊の世界はあります。ただ、その霊界との通信が、普通の人には出来ないだけのことで、特殊な能力を持ってる人、霊能者には、それが出来ます。」
速記後の雑談には、お上さんや秋子もお酌しながら加わっていた。お上さんは尋ねた。
「霊の世界には、やはり、狐や狸みたいなものの霊も、あるのでございましょうか。」
「あります。いろいろなものの霊がありますよ。天狗の霊などは、霊能者にしばしば通信してくれます。」
それからまた怪談となった。
私は意外なことを発見した。それまで、怪談とか迷信とか霊界とかを軽蔑しきっていたが、実はそういうものが、アルコールと同様に私の精神を酔わせ、アルコール以上に私の精神の栄養分となりそうに思われたのだ。宗教は阿片かも知れないが、そういう規格づけられた宗教は別として、妖怪変化や悪魔の類は、私の萎靡した創造能力を鼓舞してくれそうだった。
私は楽しく酒を飲んだ。散会してからも、新橋駅までの客の見送りは黒田と安藤とに任せ、一人居残って酒を飲んだ。
「も少し飲もうよ。今夜は面白かった。」
お上さんと秋子を私は呼び寄せた。
「狐や狸の霊があるとしましたら、崇ったり憑いたりすることもあるでしょうにね。」
お上さんの言うことが道理だと、私は思うのである。
「黒田さん、意気地がありませんわね。もっと、本気で、狐に憑かれなすったら、面白かったでしょう。」
秋子の言うことは痛快だと、私は思うのである。
「そうだ、僕だったら本気で憑かれてみせるね。君はどうだい。」
「あたしも憑かれてみせますわ。」
「じゃあ、僕が憑いてやろうか。」
「ええ、どうぞ。その代り、あたしもあなたに憑きますよ。」
お上さんも酒を飲んだ。
「狐や狸ならいいんですけれど、蛇に憑かれたら困りますね。」
蛇に憑かれた怪談が出てきた。女はだいたい怪談が好きなものだ。
そして私は怪談に酔い、酒に酔い、のびてしまった。炬燵を拵えて貰ってごろ寝をした。憑くぞ、憑くぞ。秋子と言い合っているうちに眠った。――その夜、私は秋子と抱き合ってキスした。
私は秋子を特別に好きではなかったが、嫌いでもなかった。色が白く、下ぶくれの顔立で、まあ十人並以上の容姿と言える。ただ、へんに気になるところがある。第一はその眼眸で、ちょっと白痴的なものを感じさせることさえある。それから、頭は悪くなく、はきはき判断をつけるが、それが一つ一つの事柄に就いてであって、全体としてはどこかに断層みたいなものがあるらしくも見える。杉幸のお上さんの姪とかいうことだが、勿論処女ではなく、年は三十に近い。
中一日おいた次の晩、彼女はウイスキーを一本ぶらさげて、私のアパートへ遊びに来た。
「店の方はいいのかい。」
「お友だちのところへ行くことにして、出て来ました。」
「そんな物を持って来ると、ほんとにとり憑くよ。」
彼女はにこりと笑って、私の方へじっと眼を据えた。こちらの肌にぴたりと張りつくようなその眼眸に、異様な魅力があった。私は彼女へ飛びかかっていった。
それから、私と彼女との交渉は頻繁になった。彼女は大胆だった。杉幸の店で、他の客の前でも、普通の言葉遣いのうちに親昵の調子を露骨に現わした。雑誌社の方へも度々電話をかけてきた。アパートへもしばしばやって来、私の不在中にも上りこみ、泊ってゆくこともあった。私は平然と彼女を連れ歩いた。知人間に二人の噂は次第に拡がってゆくらしかった。杉幸の主人とお上さんがどう思ってるかは、私の知るところでなかった。彼等からも私からも何とも言い出さなかった。普通の恋愛関係とは違っていた。愛情がなかったわけではないが、結婚のことなど問題ではなかった。
私は彼女の眼眸に、全く憑かれたようになった。初め私を飛びつかせたその魅力は、今では私を呪縛してるらしいのだ。幻覚までがそれに加わってくる。その眼眸にしめつけられるのは、喜びであるどころか、今では息苦しくさえもある。
酒も私には憑きものだ。秋子の眼眸も私には憑きものだ。世の中には憑くものはなく、憑かれる人間があるばかりだというのは、嘘である。狐狸妖怪のたぐいはいざ知らず、現に私に憑いてるものがある。私の意識してる限りでは、私の方から進んで憑かれたのではなく、先方から憑いてきたのだ。そして私は心身ともに憔悴してゆくばかりで、何の得るところも無い。
憑きものの正体を見届けるために、私は秋子を浅間山麓の温泉に誘い出した。気晴しに浅間の煙でも眺めたいと、甚だけちな量見もあった。そして来てみれば、相変らずの酒だ、相変らずの彼女の眼眸だ。
環境が変ったせいか、私の地位は頗る微妙なものとなった。
秋子はこまごまと私の面倒をみてくれた。洋服を丁寧にたたんでくれる。私の靴下が少し汚れてるからと、宿の女中に洗濯を頼む。靴下の汚れを気にする私の癖や、はき替えを一つ持って来てることを、知っているのだ。ワイシャツの袖口が汽車の煤煙に黒ずんでるのを見て、拭いてあげるからライターの油を出しなさいと言う。ワイシャツの着替えを持って来なかったことも、ライター・オイルの小瓶を一つ持ってることも、知っているのだ。梨に添えてあるナイフがよく切れないので、私のナイフをかして下さいと言う。私がナイフを持ってることを、知っているのだ。酒の前にノルモザンをのみますかと言う。私にノルモザンの用意があることを、知っているのだ。そうなると、少なからず不気味である。何でも知っているのだ。爪切り鋏を持ってることも知っている。髭剃りのあとにつけるクリームを持たないことも知っている。文庫本を二冊持ってることも知っている。トランプを一組持ってることも知っている。ヒロポンとアドルムと両方とも持ってることも知っている。私の鞄の中を開けて見た筈はないのに、すべて見通しだ。何にも見ていないような殆んど無表情なその眼眸の前に、私はただもう縮こまってしまった。
彼女の方が女主人公で、私はその従僕みたいだ。
宿の女中までが、私には何にも尋ねず、秋子の指図をあおぐのである。秋子はてきぱきとすべてを処理する。これはうまいとかまずいとか、料理品のことまで私に教える。朝はビールを二本にして、昼食はぬきにすると、裁断を下してしまう。
いったい、これはどういうことだろうかと、畏敬の念で私は彼女を見上げた。前髪の方は少しく縮らし、後ろを思いきりアップに取りあげて、襟足をくっきりと見せ、はでなお召の着物に伊達巻の姿で、膝をくずし加減に坐ってるところは、婀娜っぽい冷たさがあった。私には取りつく島がないような感じだ。両手を後頭部にあてがって寝ころんでいると、彼女はその眼眸をひたと私に据えたまま、しばらく時を置いて言う。
「寝ころんでいらっしゃると、ずいぶん、体がお長く見えるわ。」
私はむっくり起きて、立ち上った。
「立ってる時と、どっちが長い?」
「やっぱり、寝ていらっしゃる方が、お長いわ。」
なんとばかなことを、なんと真面目に言ってることか。私は頭をかきむしりたくなった。
「も少し酒を飲もう。飲ませてくれよ。」
彼女を相手にしていると、やたらに酒が飲みたくなる。いつもそうだ。そして酔ってくると、こんどは私の方が、下らないことをべらべら饒舌りだすのである。――僕たちはお互いに、愛し合っていますなどと、歯の浮くようなことを一度も誓い合ったことがない。これは現代式で甚だよろしい。然し、僕は君を本当に愛している。愛してはいるが、然し、恋してはいない。然し、恋愛はさめ易いが、愛情はなかなかさめないものだ。然し、愛情にも何かの支柱がいる。その支柱を探そう。然し、こう酒ばかり飲んでいては、二人とも駄目だ。少し真面目になろう。然し、真面目になりすぎてもいけない。子供のように遊ぶことが大切だ。子供のような純真さ……。
然し、然し、の連続で、何のことやら自分にも分らないのである。それでも、秋子はことごとく賛成してくれる。つまり、二人の間には、見解の相違とか意見の衝突とかは、聊かもないのだ。
私はやりきれなくなる。
「もうお酒は充分でしょう。」と秋子は言う。
こんどは、私の方がそれに従う。
「アドルムはやめましょうよ。」
彼女自身でもそれを服用してるかのような調子で言う。その気持ちは私にも分るし、私はそれに従う。だが、閨の中の彼女は全く消極的で、少しも能動的なところはない。ただぼってりした肉の温みだけだ。何等の技巧も知らないし、呼吸の乱れもなく、眉根に皺を刻むことさえなく、僅かに腹部を波動させるだけである。そしてオルガスムの後で、私の胸に顔を埋めて、くくくくと笑う。何か悪戯をした後の子供のような忍び笑いだ。羞恥の笑いでもなく、人をばかにした笑いでもない。くくくく、ただ本能的な反射的な笑いだ。それが私の心をすっかり冷してしまう。可愛いと思うどころか、何かの欠陥に突き当った感じである。
どうかすると、眼をあけて、と彼女は言うことがある。あたしの眼を見て、と言うことがある。それだけが唯一の要求だ。さすがに大きくは眼を開けず、薄目をあけて彼女の眼に見入るのだが、その視線を彼女の眼は呑みこみ、ぼーとした夜燈の薄明りの中で、彼女の眼は空洞のようにも思える。その空洞に柔かな白いものが一杯つまり、黒目が液体となってとろけ、瞳孔は拡大したままで、私の方に覆いかぶさってくる。物を見てる眼ではない。かぶさってきて、膏薬のようにひたりとくっつき、相手の息の根を塞いでしまう眼だ。
その眼を、私はいつも自分の肌に感じた。
秋子は一人になるのを嫌った。外に出歩くのを好まず、随って私も宿の室に引籠っていなければならない。高原の風物も、初夏の中空に立ち昇る浅間の噴煙も、彼女の興味をあまり引かないらしい。私は寝ころんで文庫本を読み、彼女はトランプの独り占いなどをやる。何のためにこんな処まで来たのだか分らない。酒を飲み、飯を食い、湯にはいるだけのことだ。話の種もあまりない。二人くっついていて、そして……情死を躊躇してる男女のようにも見えるだろう。
宿のわきに、ささやかな渓流がある。私は浴衣と丹前の姿でぶらりと脱け出す。渓流の水は少く、河原が広くて、灌木や雑草が茂っている。河原伝いに、ほそぼそと路が続いている。私はその路をさか上ってゆく。白や赤の花が咲いている。思わぬところから小鳥が飛び立つ。人影はない。路はとぎれがちで、やがて叢の中に迷いこんでしまう。河原におりてゆき、大きな石に腰をおろすと、浅間の噴煙が真正面に見える。
噴煙とも思えないほどの、静かな白い煙である。空は青くあくまでも高い。その中空に、円みをもって盛り上ってる峯から、煙はゆるやかに流れて、行方も分らず消え失せる。頼りなく淋しい。剛壮な気など少しもない。私の心がそうだからであろうか。軽く眩暈がするようだ。顔を伏せて河原の小石を眺める。初夏の陽は照っているのに、その温かみを背に
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