愛情がなかったわけではないが、結婚のことなど問題ではなかった。
私は彼女の眼眸に、全く憑かれたようになった。初め私を飛びつかせたその魅力は、今では私を呪縛してるらしいのだ。幻覚までがそれに加わってくる。その眼眸にしめつけられるのは、喜びであるどころか、今では息苦しくさえもある。
酒も私には憑きものだ。秋子の眼眸も私には憑きものだ。世の中には憑くものはなく、憑かれる人間があるばかりだというのは、嘘である。狐狸妖怪のたぐいはいざ知らず、現に私に憑いてるものがある。私の意識してる限りでは、私の方から進んで憑かれたのではなく、先方から憑いてきたのだ。そして私は心身ともに憔悴してゆくばかりで、何の得るところも無い。
憑きものの正体を見届けるために、私は秋子を浅間山麓の温泉に誘い出した。気晴しに浅間の煙でも眺めたいと、甚だけちな量見もあった。そして来てみれば、相変らずの酒だ、相変らずの彼女の眼眸だ。
環境が変ったせいか、私の地位は頗る微妙なものとなった。
秋子はこまごまと私の面倒をみてくれた。洋服を丁寧にたたんでくれる。私の靴下が少し汚れてるからと、宿の女中に洗濯を頼む。靴下の汚れを気にする私の癖や、はき替えを一つ持って来てることを、知っているのだ。ワイシャツの袖口が汽車の煤煙に黒ずんでるのを見て、拭いてあげるからライターの油を出しなさいと言う。ワイシャツの着替えを持って来なかったことも、ライター・オイルの小瓶を一つ持ってることも、知っているのだ。梨に添えてあるナイフがよく切れないので、私のナイフをかして下さいと言う。私がナイフを持ってることを、知っているのだ。酒の前にノルモザンをのみますかと言う。私にノルモザンの用意があることを、知っているのだ。そうなると、少なからず不気味である。何でも知っているのだ。爪切り鋏を持ってることも知っている。髭剃りのあとにつけるクリームを持たないことも知っている。文庫本を二冊持ってることも知っている。トランプを一組持ってることも知っている。ヒロポンとアドルムと両方とも持ってることも知っている。私の鞄の中を開けて見た筈はないのに、すべて見通しだ。何にも見ていないような殆んど無表情なその眼眸の前に、私はただもう縮こまってしまった。
彼女の方が女主人公で、私はその従僕みたいだ。
宿の女中までが、私には何にも尋ねず、秋子の指図をあおぐので
前へ
次へ
全14ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング