話の屑籠
豊島与志雄
田舎の旧家には、往々、納戸の隅あたりに、古めかしい葛籠が、埃のなかに置き忘れられてることがある。中に何がはいってるか分らないままで、誰の好奇心も惹かずに、ただ昔から其処にあったという理由だけで、相変らず其処に在る。それを誰も怪しまない。葛籠自身も怪しまずに、平然と埃に埋もれている。そして或る日、誰かが、偶然に、全く何の理由もなく、その蓋を払って、中を瞥見してみようものなら、ばかばかしくて、その葛籠を取捨てる気にさえならないだろう。中にはいっているのは、何の役にも立たない古証文、手紙の断片、種々の受領書、つまらない日附や品目の覚え書、ぼろぼろの小袖の断片……要するに、全然屑籠の内容にすぎない。
そういう屑物を、一体、誰が、何時、葛籠のなかなどに保存するようなことをしたのか。何かのものぐさの結果か。何かの孝心の現われか。何かの執着の名残か。何かの気まぐれの始末か。この解答は、なかなか見出せるものではない。家屋の中に於ける人間の生活は、不思議なもので、意外なところに意外な淀みを作る。
そしてこういう無益な反故こそ、実は、最もよく故人の生活を反映してるものである。故人が愛玩した什器書画骨董の類や、故人の閲歴事業伝記のたぐいは、云わばその住宅を表から眺めた外観にすぎなくて、内部の生活は、裏口に廻って覗きこみ、茶の間にふみこんでみなければ、容易に分るものではない。その裏口が、茶の間が、反故の堆積のなかに、断片的にではあるが、まざまざと跡を留めている。
知人に、下宿屋をやってる婦人がいたので、私は時折訪れたことがあるが、一番面白いのは、月末の勘定書を拵える時にぶっつかることであった。台帳から書きぬかれたその勘定書に、一通り眼を通してみると、一種の生活的習癖ともいえるものが、まざまざと現われているのである。甲の人はやたらに鶏卵をたべている。乙の人はしきりに煙草をふかしている。丙の人はお茶ばかりのんでいる。そういう日常の些細な嗜好品を、一カ月分とりまとめて、一々書き並べてみると、その勘定書の紙面に、ふしぎとその人柄が髣髴としてきて、人の気付かぬ肖像を描きだしている。――単なる下宿屋の勘定書でもそうである。古葛籠のなかにつめこまれてる各種の反故に至っては、想像に余るものがあろう。
そういう各種の反故をつなぎ合せるのは、容易なことではない。けれども不可能
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